mesimarja
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( ^ω^)移ろう愛のようです
2 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 21:32:07.02 ID:0aSfZL8S0
※※


幸せとはこういうことなのだと、今この瞬間実感できた。


「愛してるわ、ブーン」

僕の腕の中でツンが呟く。

「僕もだお、ツン」

夕暮流れる放課後、二人屋上で互いの愛情の深さを語りあっていた。
この学校の屋上に上がったのは初めてなのに、ひどく懐かしい気分がする。

「誕生日、おめでとうだお」

「ありがと」

「これ――」

ツンの背中から手を離して、ズボンのポケットの中に入れていた小さな正方形の包みを手渡す。
中身はアクセサリーの類である。


3 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 21:33:53.40 ID:0aSfZL8S0
「そのう、あまりお金とか持ってないから、こんなものしかプレゼントできないけど……」

「ううん、嬉しいわ。だってあなたがくれたものなんだから」

ツンは花が咲くような爛漫さで微笑んだ。
傾いた陽の赤々とした光に照らされたツンの顔は殊更に美しい。
金色の長い髪、雪を掃いたように白い肌、官能的な緋色の口唇、可愛らしく並んだふたつの黒瞳。
すべてが僕の脳髄を麻痺させ、とろけさせる。

愛しくてたまらない。
このままツンの身体を抱きしめ続けていたい。
完全下校の時刻が近づいているけれど、そんなつまらない規則なんかで僕らの愛が引き裂かれるものか。
ずっとこうしていたいと心から望んでいる。

付きあい始めて何ヶ月かが過ぎたけれど、ツンを想う気持ちは日に日に強まっていくばかりだ。
毎日が新鮮だった。
彼女が傍にいるだけで、暗い出来事に満ちた世界がこの上なく色彩豊かなものに見える。

「本当に愛してる。今も、これからも、いつまでも愛してる」

もう一度ツンが耳元で囁きかけてきた。
僕の口元は自然とほころび、ツンもまた柔らかい笑みを浮かべていた。

4 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 21:35:46.66 ID:0aSfZL8S0
これが幸せというやつなのだろう。
僕は目を閉じて、至上の喜びを噛みしめた。


ツンがもう一度顔を近づけて囁く。


「ねぇ――」








 

5 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 21:37:43.10 ID:0aSfZL8S0
○人を愛するということ



「なあ、お前ツンに惚れてるんだって?」

クラスメイトであり、無二の友人でもあるドクオが、
テストが終わりいそいそと帰り支度を始めていた僕に第一にかけてきた言葉がこれである。

「おまっ、いきなり何を言い出すんだお」

「笑ってごまかしてんじゃねーぞコラァ。バレバレなんだよ、バレバレ」

ドクオが僕の側頭部を小突いた。
どうやら図星であることは隠せないようだ。

彼の言うとおり、僕はツンに好意を抱いている。
ツンとは同級生の女子生徒で、隣のクラス、一年三組に属している。
ただし僕と彼女との接点はあまりなくて、長い時間顔をつきあわせて会話したことはそれほどないが。
それでもツンのことを想うと胸が熱くなり、張り裂けそうになる。

6 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 21:39:25.79 ID:0aSfZL8S0
「……なんで気づいたんだお」

照れ隠しの笑い声から、若干真剣みを帯びた声へとトーンを変える。

「誰でも気づくっつーの。つかお前、入学当初から惚れてただろ。
 いっちょまえに一目惚れなんかしやがって」

ドクオが呆れたような口調で言った。

「まさかそこまで気づかれているとは……」

「だってお前さー、そういうの顔に出やすいんだもん」

「マジかお!?」

「マジマジ。ツンを見る目つきが明らかに好いてる奴のそれだったぜ」

「うわぁ、知らなかったお」

「しかもちょっと変態的な」

「ぶち殺すぞ貴様」

強がりはしたが、内心、あまりの恥ずかしさに身悶えするような思いだった。
そこまであからさまだったとは!
体中がむず痒い。
穴があったら入りたいとはまさにこのことで、
むしろ教室の床に穴を掘って無理矢理にでもそこに隠れたい気分だった。

7 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 21:42:08.95 ID:0aSfZL8S0
「ちょっと窓際に行こうぜ」

ドクオの呼びかけに乗って校門側の方角に取り付けられた窓の近くへと行き、
渋々そこで立ち話をすることにした。
特に見る対象も持たずにガラスの向こうをぼんやりと眺める。
その俯瞰景色の中に、偶然に友人と思しき女子生徒と正門前を歩くツンの後ろ姿があった。
心臓がびくんと大きく脈動した。

「おっ、ちょうどいるじゃん」

横からドクオが首を伸ばしてくる。
茶化されているような気になり、細めた目で一瞥を送ると、ドクオは悪びれるふうもなく頭をかいた。

「で、さ。そこで提案があるんだけど」

「……なんだお、ニタニタして。気持ち悪い」

「いや、期末テストが終わるまでは言うのを我慢していたんだけどな」

ニヤけ顔からしてあまりいい予感はしないのだが、ドクオはそんな僕の内情などお構いなしに続ける。


「お前、告白しちゃえよ」

8 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 21:44:01.62 ID:0aSfZL8S0
「はぁ!?」

いったい何を言い出すのかと思ったら、よりにもよって――

「そんな勇気があったらとっくにしてるお! 大体話したこともそんなにないのに……」

「分かってる、分かってるっての」

ドクオは依然ニヤけ笑いを満面に浮かべている。

「俺も無茶を言うつもりはない。つかお前なんかがいきなりツンに告っても玉砕して終了だろうし」

さりげなく酷い現実を突きつけられる。まあそれは自分でも重々承知しているが。

「けどよ、一応は顔見知り程度ではあるんだろ?
 だから、一歩前進するためにとりあえずメアドとか、ケータイの番号とか訊いてこい。
 そんで気心が知れてきたら、一回デートにでも誘ってみな」

「それができたら苦労はしないお」

「やる前から臆してんじゃねーよ。男は度胸、何でも試してみるものさ」

どこかで聞いたことのある台詞をドクオは口にする。

9 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 21:45:46.41 ID:0aSfZL8S0
とはいっても、僕自身誰かと付きあったりしたことはないし、
それどころか高校生になっても携帯電話のメモリには一人の女の子のアドレスも登録されていない始末。
なかなか積極的になれない。

そもそもツンに話しかける行為自体かなりの冒険であった。
目が合っている間中、心拍数が上がりっぱなしだったことを覚えている。
そんな情けない僕である。

「まっ、とにかくやってみろって! 俺も草葉の陰で応援してやるよ」

「草葉の陰って、お前は故人かお」

「故人! いいねぇ。古くからの友人ってことじゃん」

「いやいや、意味がちげーお」

ちょうど古典のテスト範囲に含まれていたのを思い出す。

「そうなの? まあいいや」

頭が痛くなってくる。この男は面白ければ何でもいいのだろう。
小学校からの付きあいだからドクオという人物についてはよくよく把握している。

10 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 21:47:30.06 ID:0aSfZL8S0
首回りが苦しいのか、時々詰め襟を引っ張りながらドクオは演説を続行する。

「いいか。十代の女の子ってのはな、恋に恋しているのがほとんどだ。
 誰もが恋愛に憧れている。経験したいと思っている。ある意味じゃチャンスなんだぜ。
 三組の連中から聞いた話だとツンに男の影は一切ないらしいしな。これは大チャンスだ」

また知ったようなことを。

成程確かにドクオの言うとおり、ツンが特定の誰かと親しそうにしているところは目撃したところがなく、
完全にフリーの状態なのはほぼ間違いのないことではあるのだが、
そこに僕の入り込む余地があるかどうかはまた別の問題であるように思われた。
そのことが僕を逡巡させる原因となっていた。

「ってか、ドクオだって彼女いない歴イコール年齢じゃないかお!
 よくそんなんで僕に忠告できたもんだお」

「ほっとけ」

「他人事だと思って! 僕にも意思決定の自由があるお!」

「まあまあ、メアドぐらいは訊けば教えてもらえるだろうさ。
 ツンと仲良くなりたいんだろ? 俺もいろいろ協力するからさ、とにかく、何か行動してみろよ」

11 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 21:49:13.76 ID:0aSfZL8S0
「むぅ……」

どうして人というのは、何度も背中を押されればその気になってしまうのだろう。
童貞の思考ほど頼りにならないものはないに違いないのだが、
ドクオが僕にツンとの交わりを勧めるたびに、胸中で揺れていた意思の天秤は肯定の側へと傾いていった。


「――分かったお。やるお。やってやるお!」


それが、ちょうど冬になったばかりの頃の話だった。





 

12 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 21:52:17.62 ID:RWzcxNzN0


僕が心惹かれているツンという女性にはどこか近寄りがたい雰囲気があるのだが、
ひとたびその鈴めいた涼やかな声を聞くと、くらくらと眩暈がするほどに誘惑されてしまう。
そんな時僕はたまらなく狂おしい気持ちになる。
軽い雑談をしている最中にも、彼女が自分のものになったらどんなに素敵だろうかと、
白桃色の空想を知らず抱く。

その霞みがかったイメージが現実になろうものなら、どれだけ素晴らしいことだろう!

しかしこれまでは叶うことはなかった。
片想いで十分だと諦めてしまう自分がいた。
人を愛するとはこれほどまでに苦しいのか――顔を合わせるたびにそのことを再確認するだけだった。

自分の中で変革を起こさなければならないと、胸の奥ではいつも繰り返している。
けれど今まではどうしても最初の一歩目が踏み切れなかった。
トンと背を押してくれる誰かの手を求めていた。
囃し立てる声でもいい。
とにかく、何でもいいから、他者からの応援が欲しかったのだ。

――そしてようやく、その力強い後押しはドクオによってもたらされた。

僕の歯車が回り出した。
追い風が吹いているような心地だった。

14 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 21:56:45.18 ID:RWzcxNzN0
翌日の昼休み、僕はチャイムが鳴ると同時にドクオの指示どおり三組の教室へと向かった。


「飯ン時なら、人もバラけてるから訊きやすいだろ」


そんな、単純すぎる理由からだった。

確かにドクオの予想は当たっていて、僕が教室に足を踏み入れた時には三組の人口は三分の一ほどになっていた。
おそらくは、学食に行っていたり、体育館前の自販機でジュースを買うために校舎を出ていたり、
はたまた友達を誘ってトイレに押しかけていたりするのだろう。

幸か不幸か、その残った半数の中にツンはいた。それも一人で。
彼女は昼食もとらずに頬杖をついて、時折ため息を吐きながら、憂鬱そうに窓の外の景色を観望していた。

「ちょっといいかお?」

声をかけると、すぐさまツンは椅子に座ったまま首だけを動かしてこちらへと視線を移した。
その澄んだ瞳から放たれる眼差しが僕を躊躇させる破壊力抜群のレーザーとなる。
だがここまで来たからにはやるしかない。
しばらく他愛もない話題で間を繋いだ後、全身に纏わりついた緊張を振り払ってアドレスを尋ねてみた。

「いいわよ」

返答は意外だった。拍子抜けするほど簡単にOKしてくれたのだ。

15 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 21:59:04.52 ID:RWzcxNzN0
「ホントかお?」

「嘘なんかつくわけないでしょ。
 それに勘違いしないでよね。別にそーゆーのじゃないんだから」

しばし呆気にとられる。
正気を取り戻した時には、既に彼女は携帯電話を取り出しており、
ぞくぞくするほど妖しげな微笑みを唇の端に溜めてノートの切れ端にアドレスを書き込んでいた。

驚いた。軽いショックにも似た驚愕だった。
それまでちょっとした挨拶しか交わしたことがなかった関係なのに、
こんなにもあっさりメールアドレスを教えてくれるとは夢にも思わなかった。
――もしかして、彼女も僕に好意を寄せているのでは!?
思わずそんな都合のいい解釈をしてしまう。

「……どうしたのよ? 変な顔して」

「あっ、いや、なんでもないお。なんでも」

やはり僕は感情が表に出やすいようで、
今考えていたことがそのまま顔色に表れていたらしくツンは不思議そうな表情をしていた。
願わくは、勝手な妄想が悟られていないことを――

16 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:01:04.76 ID:RWzcxNzN0
「じゃあ、これ」

「サンクスだお。後でメール送っておくお」

「学校にいる間はやめてよね。目立っちゃうし、今はいないけど、友達にからかわれるから」

「分かってるお。帰ってからにするお」

本当のことを言えば、すぐにでも送信したい。
今の僕の頭の中では、どんな文章にすべきかだけが最重要議題になっている。

「あ、でもあんまり遅くもダメよ! そうね……九時ぐらいにして」

「把握したお! それじゃ!」

ツンから渡されたメモをポケットの奥にしまいこみ、
つっこんだ手はそのままに、紙片の存在を確かめながら自分の教室へと戻った。
この、何の変哲もない紙切れが、僕にはどんなものよりも素晴らしい宝物に感じられた。





  

17 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:02:42.99 ID:RWzcxNzN0


いったい、ツンといくつのメールを交換しあっただろう?


『なにしてるの?』
『ふぅん、そう』
『ごめん、今ちょっと忙しい』


(素っ気な……女の子のメールとは思えんお……)

最初のうちはこんな具合だった。
届くのはありふれた文面でしかない。
期待外れな面もなかったと言えば嘘になる。

それでも彼女から送られてくるメールの一言一句が僕を幸せな気持ちにさせる。
そうやって何度か電子通信を繰り返していくと、次第に中身も伴ってくる。

18 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:04:49.41 ID:RWzcxNzN0

『数学で分からないところがあるの、教えて』
『ジミー・イート・ワールドの新譜いいよね』
『明日センター街まで出かけるんだけど、いいお店知らない?』


友人と認められた証拠だろうか?
初めの一週間ぐらいは自分から送ってばかりだったが、ここ最近は彼女から送られてくることも多くなってきた。
彼女の音楽の趣味が僕と似通っていることも分かった。
つまり接点ができたのだ。
まあ自分が音楽に関して雑食なせいもあるのだけれど。

とにかく、そのおかげで学校でも直に会って話す機会がこれまでよりも巡ってきていた。
他にも彼女について知ったことが多々ある。
好きな映画はヤングガン、好きな作家は折原一、得意料理はオムライス、お気に入りの香水はアナスイ……などなど。
計画は順調に進展していると言っていいだろう。

だが築かれているのはあくまで友情の類であって、色恋沙汰にまで発展する気配はなかった。

20 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:07:16.08 ID:RWzcxNzN0


十二月中旬のある日、校門を出てすぐの路上でツンと鉢合わせた。

学校から少し歩いたところにある交差点で信号待ちをしているツンを見かけたのだ。
下校中に遭遇したのは初めてだった。
自分は最後の授業が終わると一目散に教室を飛び出て、誰よりも素早く家路につくからである。

ただ、今日はどうやらツンの帰りも早いようだった。
浅い夕闇に佇むツンは後ろから眺めても分かるほどの輪郭ある存在感を発していた。
思わず気遅れしてしまいがちになるが、
僕も通らなければいけない道だったので進路を変えるわけにもいかず、
声をかけるべきか近づきながらも迷っていると、こちらの気配に気づいたのかツンが振り向いてきた。

「今帰り?」

「うん」

このぐらいのやり取りはこれまでもしていた。
けど以前とは捉え方が違ってくる。
それはやはり、お互いの見方が変わっているからなのだろうと自分の中で結論を出した。

22 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:10:08.20 ID:RWzcxNzN0
「ここの信号、相変わらずバカみたいに長いわ。そんなに通行量が多いわけじゃないのに!」

ツンはぷりぷりして文句を垂れた。
どうも相当待たされているようで、苛立ちが外からも内からも発せられている。
しかしながらそれを差し引いても機嫌はあまりよろしくなさそうである。

「まったくだお」

僕は当たり障りのない返事をしておいた。

ちょうどその時、反対側の歩道に学生服を着た男女の二人組が見えた。
制服からして下校中のVIP中の生徒であろう。
幼さを残した二人は親密そうに手を繋ぎ、時々目配せをしては照れくさそうに笑いあっている。
僕はそのカップルを羨ましいと思いつつ和んだが、隣にいる女の子はなぜか仏頂面を作っていた。

「あんなの恋愛ごっこよ」

ツンは一瞬寂しげな目をしたかと思うと、

「中学生の恋愛なんて、ごっこ遊びみたいなものだと思わない?」

こちらへと一瞥を投じ同意を求めてくる。

24 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:13:36.49 ID:RWzcxNzN0
「そりゃあ現実はそうなのかもしれないけど、あの子たちだって好きで付きあってるんじゃないのかお」

「そうかしら」

ツンはせせら笑うように鼻をふんと鳴らした。

「別れてからしばらくの間も『ああ、辛いなぁ』とあの二人は本気で思うかしらね?
 たぶん思わないわよ。
 子供の頃の恋愛なんて、傷つきやすいけどその分軽いものなの」

「子供……って中学生は子供かお」

「精神的に、ね。私も――」

言いかけて、ツンは一回咳払いを挟んだ。

「私も中学時代、友達が男子と付きあったり別れたりしてるのを何度も見てきたから分かるわ。
 相手のことが真面目に好きだから恋愛をしているんじゃないの。
 恋愛ってモノ自体に惹かれてるのよ、みんな。
 そうでなかったら失恋した後すぐにまた違う人に心移りなんかしないわよ」

ツンは僕から視線を外した。そして夕焼けがかってきた空に向けて呟いた。


「するんならもっと真剣な恋愛がしたいな」


ツンの思わせぶりな一言を最後に会話が途切れる。

25 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:15:53.74 ID:RWzcxNzN0
一台の白いセダンが唸るような走行音を上げて目の前を通過していった。

「もう! まだなの!」

未だに赤信号が続いていることにツンは憤慨し、話題を自ら逸らした。

「ほんっと、設定を変更してもらえないのかしら!
 この道路なんて車が頻繁に通るのは朝だけじゃない。
 交通量の調査員を派遣してくれたらいいのに――あら、もう青に変わってたわ。早く渡らなきゃ!」

視線を上げると、いつの間にやら信号機のライトの色は赤から青になっていた。
慌てて横断する僕たち。
だが校区外出身のツンは電車通学であるため、駅へと繋がる道に進行方向を変える必要がある。
なので横断歩道を渡った先のトの字路で別れた。
所詮はニアミスであった。それも記憶の片隅に引っかかる程度の短さの。

「あなた確かそっちでしょ?」

「そうだお」

僕が何気ない感じで応えると、ツンは肩を落として、

「いいなぁ、家が近い人は。毎日毎日電車で通うのも大変よ。
 朝は早いし帰りは遅いし……って、こんなこと愚痴っても仕方ないけど」

そこまで独り言のように言うとツンは僕の右側から離れていった。

26 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:18:36.26 ID:RWzcxNzN0
「じゃあ……」

「バイバイ」

ツンは僕に手を振った。

「さようならだお」

僕も歩き去っていく彼女へ小さく手を振り返した。

――この期に及んでようやく何が今までと違っているのかが判明した。
それは何らかの挨拶を交わす際に、ツンが僕に向けてささやかな笑顔を添えていることだった。





 

27 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:21:27.37 ID:RWzcxNzN0


「おっしゃ、それじゃツンを誘ってどっかに遊びに行け」

冬休みに入った直後にドクオがそう電話してきた。

「もうかお?」

「この休暇を利用しない手はないだろ。一気に間を埋めるチャンスだ」

「むぅ」

受話器の向こうからドクオの笑い声が聴こえる。

「断られても、ショックで拒食症や異性不信になったりすんなよ」

「不吉な発言はやめるお。今やっと決意を固めかけてたのに……」

「わはは。まっ、健闘を祈っとくぜ。
 リア充は死んだほうがいいってのは世界の総意だけど、お前だけは特例だ。がんばれよ」

28 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:23:48.20 ID:RWzcxNzN0
こうした事情があって、ドクオの世話焼きな勧告に従いツンを遊びに誘うことに決めたのである。

ただ今年中はやめておこう。まだ早いような気がする。
せめて年が明けてから――そう、一月の五日か六日ぐらいがいいだろう。
実際には一週間ほどしか日数は変わらないが、そのほうが多少精神的に楽になり、気分が違ってくる。
その頃までには課題も終済ませなければならない。
中学時代は期限ギリギリまで放っていたが、今回は目標があるため早めに取りかからざるをえないようだ。


そうして大晦日がやってきた。
家族と一緒に年越し蕎麦を食べた後で、
年末だというのに僕は机に向かって未だ終わらない課題の山と格闘していた。

「せんのか~ぜ~に~、って、さすがにもう聴き飽きたお」

部屋に備えられたテレビから紅白歌合戦の音声が聴こえてくる。
いつもの年なら楽しく視聴するのだが、今の自分には非常に煩わしく感じられたので消した。

「ああ、もう!」

これほど量が多いとは! 高校の宿題を舐めていた。
シャーペンを動かす手は疲労から痺れ、プリントの文字を読む目は開けていることさえ苦しくなっている。

31 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:28:50.99 ID:RWzcxNzN0
終わらない宿題の半分が終わった時には、とっくに新しい年を迎えていた。
そのことに気づいたのは、
何となく携帯電話を開いた時に受信ボックス内に所謂『あけましておめでとう』メールを発見してからだ。
差出人はドクオと、その他の友人知人と、

――そしてツン。

「ちょっ、やっべーお!」

僕は慌てて返信をした……が、もう二時間も前に届いたメールだ。
あまりにも返すのが遅すぎる。
ツンからの印象がよくないことは容易に想像できる。
なんてことだ! 新年一発目からとんでもないヘマをやらかしてしまった!
そう思うと全身がだるくなる。
血管に血の代わりに甘ったるい砂糖水が流れているのではないかと錯覚するほどに。

頭を抱えながら僕は力なくベッドに転がり、そのまま倒れこんでいると、
疲れ切った脳と体はすんなり休止状態へとギアをチェンジしていた。

そんなわけで、僕の二〇〇八年は最悪のスタートを切ってしまったのであった。





 

32 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:30:42.26 ID:RWzcxNzN0


騒がしい正月の三箇日が過ぎ去っても、
僕の胸の箱の中にある心臓だけはけたたましい音楽を奏で続けている。
それもこれも、すべてこのちっぽけな機械のせいだ。

ケータイめ!

お前が存在していなかったら、いっそ観念できたのに!

こいつを握りしめている限り、僕に安心というものは訪れないだろう。
そう、僕はかねてからの予定通りツンをデートに誘おうとしているのだ。

明日、ちょっと電車で三駅の繁華街まで出てショッピングをしにいこうと思っている。
もし何の予定もないのなら、よかったら一緒に行かないか――といったふうな文章を打ち込んだのだが、
正直あまり内容は覚えていない。
ボタンを押す指は終始震えっぱなしだった。何分、女の子を誘うのは人生初なので。

操作を完了し、携帯電話を力任せに閉じた。

34 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:33:19.98 ID:RWzcxNzN0
「あーあー、送信ボタン押しちゃったおー。もう知らんおー」

半ば投げやり気味だった。
勢いに任せての行動だったとも言えるかもしれない。
やっぱりやるんじゃなかった、いくらなんでも早すぎた、と今更になって後悔の念がこみ上げてくる。

ようやく見え始めた一条の光が遮断されてしまったら、自分はこの先どうすればいいのか!?

だが送ったものは仕方がない。
僕は覚悟を決めて自室のカーペットの上に寝っ転がって返事を待った。
世界の終焉に怯える子ネズミの心境だった。
耐えがたいほどの静寂に胸が押し潰されそうになる。
壁掛け時計の針が進む音だけが響く。

数分経ったのちに、床に投げ捨てられた携帯電話がB4MVの「ティアーズ・ドント・フォール」のメロディーを歌った。

返信だ。

ばくばく、ばくばくと、鼓動の音がけたたましく響いているのが自分でも分かる。
恐る恐る不器用な手つきで開いてみる。

とても短く簡略的な、それでいて伝導率の高い言葉が液晶画面上に記されていた。

35 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:35:15.45 ID:RWzcxNzN0

『オッケー』


――心臓の高鳴りは最高潮を迎えた。


神よ、もし本当にいらっしゃるのでしたら、私はあなたに心より感謝します!





 

37 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:36:36.17 ID:RWzcxNzN0


明くる日の午後、僕とツンは中央の街をぶらりと歩いていた。
道沿いに植わっている街路樹は葉が散っていて、全身の木肌が剥き出しになっており、
ねじれた幹から細い枝がほうぼうに伸びた姿が、出来の悪い前衛芸術の彫刻を想起させる。

駅近くの歩道橋下で待ち合わせをし、そこから都心部へと向かっていた。
現地集合は少々まずかったかもしれないが、ツンがさして気にしていないようだったので助かった。
彼女に幻滅されることが何よりも恐ろしい。
いきなり初っ端からつまづこうものなら、もう今日の失敗が約束されたようなもんだ。

「別に好きで付きあってあげてるわけじゃないんだからね!
 ただ、その……そう! 退屈してただけよ。その暇つぶし」

気恥ずかしさをつっけんどんな態度で覆いながら、ツンはそんなことを高い声色で言うのだった。

右隣で靴音を鳴らすツンは七分丈の細めのジーンズを完璧に履きこなし、
上着にはファーフードつきの白いダウンジャケットを羽織っていた。
前髪には銀色のヘアピンを付けている。
今まで青タイの制服姿しか見たことがなかったが、私服を着た出立ちもなかなかイケている。

一方の僕は「あまりファッションセンスはよくない」といった辛辣な批評を頂戴したのだが、
そのあたりの今後改善すべき事情はひとまずおいておこう。

40 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:39:20.92 ID:RWzcxNzN0
今日のツンはいつもより随分と大人びて見える。
けれど歯を見せてけらけらと笑みをこぼした時などは、少女のように瑞々しい華やかさがある。

僕の双眼は彼女の可憐さに釘付けになっていた。

ジーンズの裾から靴にかけてあいた隙間から露出した脚は細く、くるぶしが顔を覗かせている。
最近はこういう寸法をハンパ丈というのだろうか?
誰が考案したのかは知らないが、とんでもない、そのネーミングは間違っている。
何が中途半端だ。
こんなにも魅力に溢れているというのに――

「……で、どこに行くのよ。聞いてなかったけど」

「おっ!? あ、ああ、うん、ちょっとHMVまで」

理路整然と応えようとしたのだが、実際に口から出たのはしどろもどろで吃音じみた声だった。
僕の脳ミソは一体どうなってしまったんだ!?
憧れの人がすぐそばにいるだけで、思考の糸がこんがらがってしまう。
高揚が息苦しさに変わっていく。
冬だというのに脇の下にびっしょりと汗をかいている。

そのことが顔に出てしまわないよう警戒しつつ、冷たいアスファルトの道を踏みしめていった。

42 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:40:47.68 ID:RWzcxNzN0
「そういえば、ツンの誕生日っていつなんだお?」

「誕生日?」

「そう」

「なんでそんなこと訊くの?」

ツンの片眉がぴくりと動いた。

「いや、特に理由はないんだけど……なんとなくだお」

「ふぅん、まあいいか。七月よ。七月の終わり」

「おっ、そうなのかお」

僕は無自覚に「まだ時間の猶予があるな」などと、その猶予の意義も分からぬまま考えてしまった。

「あなたは?」

「僕は三月だお」

「じゃあまだ十五歳なの? 私のほうが年上ね」

なぜかツンは嬉しそうに不敵な含み笑いを顔に貼りつかせた。

43 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:42:13.11 ID:RWzcxNzN0
すこぶる天気がいい。
季節が季節だから少しばかり肌寒いのは仕方ないけれど、
空は青々とよく晴れているし、街を覆う空気は澱みなく、清澄な風を運んでいる。
自然は今のところ僕に味方してくれていた。

「天気予報もたまには信じてみるものね」

「おっ?」

またしても驚いたような声音になってしまった。
どうにも今日の僕はツンから話しかけられると必要以上に緊張してしまうらしい。

「だから、天気予報よ。私、降水確率なんて全然あてにならないものだと思ってたけど、
 今日に関しては当たってるってこと!」

「おー、僕は朝のニュースはあんまり見ないから気にしてなかったお」

「ちょっとは気にしたほうがいいわよ」

「あう……」

44 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:43:20.17 ID:RWzcxNzN0
会話を絶やさぬまま地下のショッピングモール内にあるHMVに到着すると、ツンがいの一番に、

「何買うの?」

と小首を傾げて問うてきた。

「そりゃもちろんCDだお」

「それは分かってるわよ! だからぁ、どのCDを買うのかって」

「ああ――」

実を言うと、そこまでは決めていなかった。
ただ単にツンを誘う口実が欲しくてCDショップを選んだのだ。
僕と彼女の唯一の共通点が音楽の嗜好であり、そこが突破口になると思案している。

「え、と……んー……・」

せわしなく首と眼球を動かして赤紫色の照明に彩られた店内を見回す。
右手前側の、ハードコア専門のコーナーが目の片隅に引っかかる。

45 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:45:11.64 ID:RWzcxNzN0
――そうだ!

脳内でピコンと豆電球が光った。
去年発売されたザ・ブラック・ダリア・マーダーの新譜がまだ未購入であったことを思い出したのだ。
即座にその場所へと小走りで向かう。

「これを買いに来たんだお」

CDケースを手にとって、B級のホラー映画に出てきそうな城の絵が描かれたジャケットをツンに見せる。

「あら、これ私持ってるわよ」

「おっ、そうなのかお」

意外だった。
ザ・ブラック・ダリア・マーダーはグロウルやブラストビートを多用する、相当にデスメタルよりのバンドだ。
勝手だが、その手の音楽にまでは興味がないのかと思っていた。
彼女はハードコアにカテゴライズされた中でも、
もちろん僕もよく聴くが、特にポスト・ハードコアを好んで聴くと以前に聞かされている。

47 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:46:48.46 ID:RWzcxNzN0
「結構いい感じよ。最初の頃と比べたら演奏も音質も段違いによくなってるし。
 昨日言ってくれれば貸してあげたのに」

「ううん……でもやっぱり自分で買ってじっくり聴くお」

今日は比較的財布の中身にも余裕がある。

「それにしても、ねぇ」

レジに向かおうとする僕をツンが呼び止める。

「物騒なバンド名よね。そのまんま『ブラック・ダリア事件』だなんて!
 女性が真っ二つにされた殺人事件よ。
 中学の頃にエルロイの小説で読んだわ。もっともあれはモチーフにしただけだけど」

「あー、聞いたことあるお。猟奇事件は怖いお」

まあそれを言い出すなら、本当に殺人事件を起こしてしまったバーズムなんかはどうなるんだって話だが。

48 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:48:21.29 ID:RWzcxNzN0
「私もCD探してきていい? ここ初めてだから、いろいろ見てみたい」

「もちろんだお。そのつもりで誘ったんだお」

僕が応えると、

「どうせなら一緒に見て回りましょうよ。それで、オススメがあったら教えて」

ツンに言われるがままに、僕は一旦商品の清算を後回しにして二人で店内散策をすることにした。

「ここ、結構品揃えが豊富ね」

輸入盤が置かれたコーナーでツンが感慨深そうに呟く。

「あっ、これ! ラスマスの四枚目じゃない!
 これ日本盤出てないのよね。へぇ。買っちゃおうかしら」

CDケースを手に自分の好きな音楽を語っている時の彼女の嬉々とした表情は、
綺麗と称するよりは、子供っぽい天真な可愛らしさがあった。
つられて頬が緩む。

何気ない一瞬一瞬が至福の時に感じられた。
彼女も楽しんでくれているだろうか?

50 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:51:28.98 ID:RWzcxNzN0
一時間くらいそうしているうちに、ツンも試聴した中のいくつかを買うことにしたらしく、
また僕もツンに勧められた三枚のアルバムの購入を決めたため、
結果二人合わせて結構な量のCDをレジへと持っていく次第になった。

「これ、買いすぎかもね」

店を出た時に、ツンはCDを入れた袋をかかげながら悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「どうする? このあと。私ジュンクドーに行きたいんだけど。確かすぐ上よね?」

「えっ、いや、こっちにも決めてある段取りが……」

「いいじゃない。デートなんてその場その場の空気で変わるものよ」

計画破棄。

その後はツン主導のもと、ジュンク堂で文庫本を漁ったり、
ゲーセンのUFOキャッチャーで安物のぬいぐるみを取るために数十分も粘ってみたり、
31でカップアイスを買って(ツン曰く、「アイスは冬に食べるもの」だとか)歩きながら食べて――と、
当初計画していたプランとはまるで異なったデートをした。

彼女に引っ張られているうちに、辺りはいつの間にやら薄暗くなり、ちらちら街灯が点き始めていた。
僕はどうやらリードする役には向いていないようである。

52 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:53:51.64 ID:RWzcxNzN0
しかしこの様子は傍目から見れば仲のいい恋人同士に見えるのではないか?
またまた調子のいい思い込みをしてしまう僕である。


「もうこんな時間。そろそろ帰らないと!」

なんでも、ツンの家では夜間の外食は禁止らしい。

「うち過保護だから」

ツンは決まりが悪そうに舌を出した。
遅くとも八時までには帰らないといけないと言うので、僕は名残惜しく思いながらも駅へと付き従った。
まったく、なんで夜なんてあるんだ!
月と太陽は空気を読むべきだ。
的外れなのは自覚しているが、このやるせない怒りを広大なる天体たちにぶつけてやりたい。

56 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 22:57:14.25 ID:RWzcxNzN0
「じゃあね」

自宅のある町へと続く電車が明るいメロディーと共に到着したところで、ツンが小さく手を振る。
僕とは正反対の路線だ。
すなわちここでサヨナラである。
果たしてこのまま黙って見送るべきなのか?

違う。

別れを告げる前に言っておくことが自分にはあるはずだ。
変に気取って変化球なんか投げなくてもいい。
ツンが華奢な背を見せるより先に、喉に引っ掛かっていた言葉を懸命の思いで吐き出した。


「また誘ってもかまわないかお?」


プラットホームが異世界に思われた。


「そうしてくれると嬉しいわ。楽しかったしね」


ツンは目を弓にして意味深にそう言い残し、
橙色の明かりひしめく車内へと高雅な足取りで乗り込んでいった。
普段の強気な態度からは想像できない優しい表情だった。

57 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:00:17.49 ID:RWzcxNzN0
蒸気の漏れるような音を立ててドアが閉まり、
電車がゆっくりと走り出すと、車輪と錆びたレールとがこすれあう甲高い金属音が鳴り響く。

ガラス越しに映るツンの立ち姿を僕はぼんやりと眺め続けていた。
呆然から視覚神経が乱れ、遠ざかっていく彼女の影はコマ送りの映像のようになって脳に取り込まれた。
ひとりホームに立ち尽くして、僕は感激に心震わせる。


歓喜の雄叫びを上げたい!


穏やかな声で紡がれたツンの返答が鼓膜に、控えめな微笑みの残像が瞼にそれぞれ蘇ってきた時、
僕を囲んでいた世界がゆるやかに輪転を始めた。





  

59 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:02:08.67 ID:RWzcxNzN0


その夜、もし暇なら明日も街に遊びにいかないかと持ちかけてみたところ、
了承を伝える旨の返信メールが返ってきた。

なんて自分は果報者なのだろう。
心身ともに晴れやかな気分で床に就き、早く朝が訪れるよう一晩中布団にくるまれた状態で祈り続けた。

そうして翌日も、今度は午前からデートを満喫した。
いや、ひょっとすると「デート」だと思いこんでいるのは自分の側だけなのかもしれない。
ツンは僕のことを単なる友人の一人としか認識していないのかもしれない。
それでも構わなかった。
彼女に接近したいという願望が虚しさを上回っていた。

いつか友情が慕情に変わることもあるだろうと信じて日々を過ごしていく僕だった。

――だが時の流れというのは残酷なもので、
さらなる交流を深めていこうとする前に、冬期休暇の日数は尽きてしまった。





 

62 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:04:06.99 ID:RWzcxNzN0


「生徒の中に行方不明者が出ました」

始業式は校長のショッキングな宣告で幕を開けた。
体育館がざわめきに包まれた。

「数日前の地元紙に載せられていたので既知の生徒もいるのではないでしょうか。
 えー、本校のとある生徒の一人が、
 昨年末から自宅に帰ってこないとの通報を保護者の方から警察ともども受けました。
 二十何日かに外出したきり戻らないそうなのです。
 どうも生死も不明とかで……いや、まさか本校の生徒にそのような不幸が起きるとは……。
 ……失礼。えー、ごほん」

校長は湿った咳を合間に入れた。

「冬休み期間中、一体何があったのかは分かりません。
 警察も捜索が進んでないらしく、私どものほうにも詳しい事情はまだ入ってきておらんのです。
 長期休暇ということで多少の気の緩みもあったのかもしれませんが、
 ただただ、事件に巻き込まれていないことを懇願するばかりです」

64 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:05:17.89 ID:RWzcxNzN0
沈痛な面持ちで校長は続ける。

「もしこのことについて何か知っているという人がいれば是非、事務室のほうまで来てください。
 情報は何でもかまいません。
 かわいい我が校の生徒です。校長、いや教師一同が、生徒の生存を信じています!
 そして在校生の皆も安全を祈ってくれることを願うとして、この話は終わりとさせていただきます。
 ……えーでは、次の話を――」





 

66 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:07:22.36 ID:RWzcxNzN0


「物騒なこった」

式の終了後、ドクオが渡り廊下で僕に話しかけてきた。
誰に言うでもなさそうなぼやきめいた調子だった。

「確か前にもあったよな。行方不明事件って」

「おっ、そうなのかお?」

「おいおい、お前ニュースぐらい見ろよ。あったじゃん。
 隣町の学校の、えーと男子生徒だったかな、
 二年前か三年前かの夏にどっかに出かけたきり行方が分からなくなったってこと。
 結構でっかく報道されてたのになんで知らねーんだよ。忘れたってんなら分かるけどよ」

「別にいいじゃないかお、今更。それよりそっちの事件はどうなったんだお?」

「さあな。見つかってないんじゃ事の成り行きも顛末も分かんね。
 つかたぶんそれ以前にも似たようなことがあったな。土地違うから関係ないかもだけど」

そこまで抑揚のないいつもの語調で語ると、ドクオは「まあ」と一呼吸置いてから、

「どれも百パー死んでるだろうけど」

と淡々と結んだ。

67 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:11:45.68 ID:AzMAgmIH0


「――あったお!」

帰宅してから真っ先に積み上げられた古新聞の山をを漁ると、該当記事を発見した。
当然例の事件に関する記事だ。
活字慣れしていないのでざっと目を通しただけだったが、
確かに今朝の校長の話どおりの内容のことが書かれてあった。
写真も載せられていたが見覚えのある顔ではなかった。

「なになに……」

紙面によれば、家族は一週間近く経ってからやっと捜索願を出したらしい。
なんでも「年末から正月にかけての間友達の家に泊まる」とかいう連絡があってそれを信じていたそうだが、
一月の三日が過ぎても帰らないので携帯電話にかけてみたが、出ず、
不明者の友人数人に電話で尋ねても「そんな事実はない」と答えられるばかりだったので、
慌てて警察に通報したという、まあ概要を抽出するとこうであった。
その先にもだらだらと記述されてあったが面倒なので読み飛ばした。

それにしても心配するのが遅すぎる。
親の子を案ずる気持ちが薄かったのか、逆に信頼しすぎていたのか、もしくは別のなにかが――





 

70 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:13:24.36 ID:AzMAgmIH0


波乱の新学期が始まると、僕とツンとの関係もめまぐるしく変化していった。

まず学校でも顔を合わせる機会が明らかに増えた。
ツンのほうから僕の教室に来ることもある。
主にCDや雑誌の貸し借りをすることが多いのだが、
そのまま始業のベルが鳴るまで話し続けることもしょっちゅうだった。

メールを交わす頻度も加速していき、ほぼ毎日何通ものメッセージを送り合っている。
それも去年までと違い、心からのやり取りができているような気分がする。

たった一度のデートでこれだけ友好が深まるものなのだろうか。
彼女との間にはもはや壁が感じられなくなっていた。


距離が近づくにつれ、ツンを想う気持ちも増していく。

僕はやはり彼女が好きなのだ。

気品さえ漂わせているクールな所作が好きだ。
そんな通常の凛とした雰囲気とは対照的な、
たまに見せる、卵型の輪郭いっぱいに浮かべる無垢な笑顔が大好きだ。
先生や先輩らに対しても毅然と立ち振る舞える勝ち気な性格も大変気に入っている。

どうしようもないくらいに彼女に魅了されているのだ。

72 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:15:46.91 ID:AzMAgmIH0
もっとツンのことを知りたい。

思うに、愛するとは、きっと相手のすべてを理解しようと欲することに違いない。
そこにはおそらく、精神的なだけじゃなく、肉体的な意味も含まれているのだろう。

けれど僕は後者は拒絶していた。
そうした情欲に満ちた感情をツンに対して抱くことが、ひどく邪悪な行いであるかのように思える。
吐き気すらするほどだ。
彼女という高潔な存在を汚したくないのだ。
ツンと体で結びつきたい、セックスしたいだなんていう、そんな不純物だらけの欲望はとうに捨ててしまっていた。


ひたすらにプラトニックな繋がりのみを求めている。
それ以上は望まない。
ツンさえいてくれればそれでいい――





 

74 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:17:53.85 ID:AzMAgmIH0


一月の半ばの昼休み、ドクオが教室で机につっぷして寝ていた僕の耳に語りかけてきた。

「おい、こら、起きろ。起きやがれ」

「なんだお、人がせっかく夢見心地になっていたのに……」

まどろみから覚めた僕は目をこすりながらドクオの口が再び動くのを待った。

「お前、あれだな、順調そうだな」

「何がだお」

「ツンのこと」

「ああ、ハイハイ」

そうですかお、と継ぐ。

「そうですかお、じゃねーよ。もうだいぶ仲良くなってんだろ? 羨ましい限りだぜ」

「ひやかしかお。それに僕だっていろいろ努力を――」

「分かってるっての」

ドクオはぱっと見意地の悪そうな嗤いを顔の下半分いっぱいに浮かべた。
面白がってるな、コイツ。

75 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:21:05.38 ID:AzMAgmIH0
だが僕は彼に感謝こそすれ、煩わしいなどと思うはずがない。
彼の後押しがなければ――まあ冗談半分だったのかもしれないが――今の状況は成り立っていなかっただろう。

「そろそろいっちゃえよ」

ぶっきらぼうな言い方でドクオが囁く。

「いくって、どこへだお」

「かーっ! 解ってるくせによ。
 告白だよ、告白。ツンにこ・く・は・く」

予想と寸分の違いもない応答が返ってきた。

「今だって付きあってるのと同じようなもんじゃん。話してるときもかなり仲よさげだし。
 嫌われてるって感じは全然しないんだろ? だったらいけるって。たぶん」

ドクオはへらへらと気安そうな笑みをこぼす。

「ってか、もう噂になってるぞ、お前」

「噂?」

76 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:22:57.93 ID:AzMAgmIH0
「おいおい気づいてなかったのかよ。
 お前どこまで鈍感なんだよ。
 女子たちの間じゃ『あの二人仲イイよねー付きあってんじゃなーい?』ってな具合だぜ?
 つか男と女が特別親しげにしてりゃあそう勘繰られるのも当然だろ。
 思春期の過敏さ舐めんな。
 そりゃあ分別ある大人になら男女の友情なんてありうることなのかもしれないけどよ、
 年中脳内が薔薇色してやがる高校生たちは、まあとにかく発想が短絡的だからな。俺含め」

「ふぅん――」

「だからさ、いけ。いっとけ。やって減るもんじゃないんだし」

「相変わらずお節介だお」

僕は唇を尖らせてみせる。
一方ドクオは薄笑いの表情を崩さずに、舌先をいっそう軽妙に走らせる。

「成功したらもう俺は口を挟まねぇよ。二人で好き放題イチャイチャしてな。
 もし失敗したら……うん、その時はその時で」

「……縁起でもないことを言うなお。
 しかも『その時はその時』ってなんだお。責任ゼロかお」

79 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:24:48.81 ID:AzMAgmIH0
「アレだよ、ケースバイケースだよ」

「訳分からんお」

軽く混乱が生じる。
無論これは「告白しろ」と唐突に急かされたことに対してであるのは言うまでもない。

「まっ、とにかくだ、俺の見立てだと成功確率は相当高いと予測しているぞ。
 大丈夫だって。いっちゃえいっちゃえ」

この男は人を調子に乗せることだけは無駄に、それも抜群に上手い。
持つべきものは親友である。
無意識のうちに僕の胸には決意の炎が灯っていた。

君が好きだ!

思い切ってそう叫んでしまえばいいのだ。
簡単なことじゃないか。
どうせかつては叶わぬ恋だったんだ。今更惜しんで、一体何の得があろうか。
失うことを怖がっていたら何もできない。

何かを手に入れるためには、今掴んでるものを放す覚悟で、握りしめた手を開く必要があるのだ。

80 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:26:24.70 ID:AzMAgmIH0
「それと最後に言っとくわ。
 いいか、人間は成長はするけど変化は決してしないんだ。
 お前はお前のまんまだ。肩肘張って違う自分を見せようとすんなよ」


ドクオから贈られた助言が、さながら吉兆を報せる鉦鼓となって、僕の胸に反響した。







 

81 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:28:15.11 ID:AzMAgmIH0


明くる日の放課後ツンを校舎裏にある用具倉庫の前に呼び出した。
六時限目の授業が終わるやいなやメールで連絡しておいたのである。

つい先ほどまで雨が降り続いていたが、今はすっかり止み、曇天には虹が架かっている。

ひび割れた白塗りの倉庫の壁にもたれながら、
今、自分はギャンブルの第一関門をくぐり抜けようとしているのだということを改めて思い起こす。
期待と不安と、そして圧倒的な恐怖が僕の心中で渦巻いている。
直立不動のまま待ち続けることがどうにもできず、
足踏みをしたり、屈伸運動をしたり、その場をぐるぐると回ったりしていた。


そうして十分ほど経っただろうか?
部活動へと急ぐ生徒が行き交う間を縫って、裏庭の通路を渡ってくる一人の女性の姿が見えた。

ツンだ。

肌がいっぺんに粟立ち、背筋に氷塊を流し込まれたような心持ちになる。
彼女がこちらに着く前にひっそりと深呼吸を試みたが、その程度で落ち着くはずもなく――

――気づいた時には目の前にツンがいた。

82 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:30:21.25 ID:AzMAgmIH0
「ムードも何もない場所ね」

第一声がそれであった。

「どうしたのよ」

まぶしいものでも見るような細めた目つきで僕を見てくる。
その瞳にはミステリアスな光が宿っていて、体の内側まで見透かされているような気分になる。

「こんなところにまでわざわざ呼び出して……ここでなきゃ言えないことでもあるの?
 それも直接」

「えーと、ほら、行方不明になったっていう人、まだ見つかってないそうだお。
 手がかりみたいなものも出てこないとかで――」

世間話から始めてみた。
声が震えないよう細心の注意を払う。

「そうなの。……でもはっきり言ってどうでもいいわ。私の未来には関係のないことだし」

ツンは平然として答える。
本当に興味のなさそうな、街頭アンケートを適当にあしらうような言い方だった。

84 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:32:09.08 ID:AzMAgmIH0
そして僕を問い詰めるような口調に変わる。

「そんなことを言うためにわざわざ呼んだの?」

「いや……」

「じゃあなんなのよ」

口の中に溜まった粘っこい唾を喉に押しこむ。

「……あの、ツンは……」

「なに?」

「ツンは高校に入ってから、誰か男の人と付きあったりしたことはあるかお……?」

「ないわよ」

少しの考える隙もなくツンは即答した。
かき上げた髪が暮色を裂く風に吹かれて、絹糸が舞うかのように綾めく。

85 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:34:32.32 ID:AzMAgmIH0
「だからぁ、何が言いたいの?」

ツンはニヤニヤしながら、少し照れくさそうな上目づかいになった。
この先僕が口にしようとしている台詞の全容をまるっきり予知しているみたいで、
その今にもぷっと吹き出しそうな彼女の様相がさらに焦りを増大させる。

考え直してみれば、大体こんな場所に呼んでまですることなんてひとつしかないじゃないか。
悟られて当然だ。
なぜこの期に及んで自分はまだ臆病風に吹かれているのだろう!?
もっと強く心構えしておくべきだった。

左胸のあたりがずきずきと痛む。
ツンに心情を吐露することは、僕からすればありとあらゆる苦行に耐えるよりも困難に感じられた。
心臓が破れて血が噴き出しそうだ。
少しでも気を抜くと膝からくずおれてしまいそうになる。


それでも何とか声を絞り出した。
声なのか音なのか判断のつかない曖昧なノイズが唇の隙間からこぼれ落ちた。


「き、君が――君のことが――好きだおっ!」

88 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:36:35.83 ID:AzMAgmIH0
――それからのことはよく覚えていない。
堪えていた感情が放出され、興奮と緊張が絶頂に達していたからだろう。
「僕と付きあってください」と、舌が続けて回転できたかどうかでさえ、自分でも不確かだった。

夢なのか現実なのかの区別がつかぬまま時が流れていった。


唯一記憶の中に残っているのは、ツンが微笑みながら首を縦に振る、愛らしい仕草だけである。

告白に首肯してくれた証なのだと理解した途端、胸に熱い一雫を覚え、涙がとめどなく溢れてきた。


僕の人生が輝き始めた瞬間だった。








 

95 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:48:16.34 ID:AzMAgmIH0
※※


「――どうして?」

ツンは目を見張り、僕の顔に完全に視線を固定した。
信じられない、とでも言いたげに。

「私のこと嫌いなの? それとも、ただ面喰らってるだけ?」

「そんなことは……いや……」

「じゃあ」

キスしてよ、と言ってツンはぐいと顔を寄せた。
その挑戦的な目つきに、僕の中で一瞬の躊躇が生まれ、そのためか応答に窮してしまう。

「……やっぱりできないんじゃない!」

ツンは乾いた声で戸惑う僕を糾弾した。
極論だ!
そう反論したかったが、口外しづらい空気をツンが発しているために押し黙らざるをえなかった。

96 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:50:05.00 ID:AzMAgmIH0
ツンの態度は豹変していた。
淑女を彷彿とさせる落ち着きはすっかり失われ、大袈裟に両手を動かし、唇をわなわなと震わせている。
今までにも何度か同じようなやり取りはあったが、これほど激情的ではなかった。

「愛していない証拠よ」

立ち眩みがした。

そんなはずがない、君を愛しているに決まっているじゃないか。
なのになんでそんなふうに非難を浴びせるんだ。

――だがしかし、弁解の言葉は喉元まで出かかったところで詰まりを起こした。
僕は混迷に陥っている。
足元がおぼつかなくなり、一、二歩よろよろと後退した。

「あなたなら本気で愛してくれるって、私、そう思ってたのよ」

ツンの瞳に暗い炎が灯った。
そして熱い雫が一滴、また一滴と目尻からこぼれ落ちた。

98 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:51:28.09 ID:AzMAgmIH0
彼女はひとしきり感傷に浸ると、
泣いているのか笑っているのか、はたまた怒っているのかよく判らない表情をして僕に抱きついてきた。

あえて言い表すとすれば嘆きであろうか。
絶望かもしれない。

とにかくツンはひどく悲しんでいた。僕に対しての悲しみであることは訊くまでもなかった。

上質のシルクめいた彼女の髪が、薫風に揺れて僕の鼻をくすぐる。
着用しているシャツにツンの涙が滲む。
人肌分の温度であったが、それ以上の熱さを覚えた。

どうしてこんなことになったのだろう。
本来なら、今日は特別な日になるはずだったのに――

「内藤のこと、信じてたのに……」

ツンは涙声になりながら、僕のことをブーンではなく、本名の内藤で呼んだ。

101 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:52:28.40 ID:AzMAgmIH0
僕は彼女を裏切ってしまったのか?

だとしたら、僕の行動のどこに問題があったのだろうか――









 

103 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:54:45.98 ID:cuZN1a9B0
●人に愛されるということ



――梅雨も明けようかという夏の陽射しは、あまり清清しいとはいい難い。
坂の途中に樹木など日除けになる類のものは何一つとしてない。
ただただ白茶けた油土塀らしきものが延延と続いている。
この塀の中にあるのが民家なのか、寺院や療養所のようなものなのか、私は知らない。
或いは公園か庭園のようなものなのかもしれない。
冷静に考えれば、建物を囲うにしては面積が広すぎるから、矢張り庭園か何かなのだとも思う――


そこで本を閉じた。

まだ読み始めたばかりであったが、辛抱できないほどの眠気がとうとう襲ってきたために、
読書もそこそこにしてベッドへと転がりこんだ。

104 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/14(土) 23:55:27.26 ID:cuZN1a9B0
第一、寝る前に読むものとしてこのような分厚い本を選んだのがまず失敗だったかもしれない。
どう考えても一晩で読みきれる量ではない。

他の本を読もうにも、合わせて買ったもう一冊の同作者の著書は、
なんとその厚さを遥かに上回る驚異的なページ数を誇っていて、サイコロめいた一種異様な形をしている。
これはもっと無理だ。
素直に睡魔に身を委ねよう。

首の骨を二回ほど鳴らしてから、スタンドライトの電源を落とし、僕は眠りの世界へと隠れていった。


愛しいツンのことを想いながら――





 

106 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:02:19.51 ID:q+VwYOzw0


僕の想い人であるツンという少女は筆舌に尽くしがたいほどの魅力に溢れた美姫だ。

学校で出くわすたびに送られてくるウィンクは僕の最大の楽しみだった。

ただ自慢の恋人と廊下を歩いている際、
すれ違う男子生徒がツンに憧憬の眼差しを注いでいるのを見ると誇らしい気持ちになるのだが、
同時に嫉妬心が芽生えてしまうのが困りものである。

交際は当然校内だけではない。
「あそこに行きたい」とツンがねだってくるたびに、僕らは休みの日にデートの回数を重ねた。
いろんなところへ行った。
そうしてその都度、眩いばかりの思い出が刻まれていったのであった。

世間ではまだ昨年の行方不明事件が解決されていないというのに、
自分たちはこんなに安穏かつ幸福でいいのかと余計な心配までしてしまうほどだった。

107 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:05:23.68 ID:pjFf9Zs40
けれど徐々にズレというか、何か違和感のようなものが生じてきているのもまた事実だった。
駅前のなんとかダイニングとかいう店で昼食をとっていた際のことだ。

「あのね、ブーン」

ブーンとはツンが僕につけた仇名である。
二人でいる時彼女はいつもこの名前で呼ぶ。

「私思うの」

「おっ?」

「そんな大事な話じゃないんだけど」

二人とも同じランチセットを注文し、メインの料理である十割蕎麦をすすっている時に、
ツンはふと箸を止めて妙なことを口走った。
僕たちの他には数組のカップルと女性客しかおらず、
各々が自分たちの世界に夢中でいるので、こちらの会話を聞かれているような様子はない。

「私たちのデートっていっつも同じじゃない?
 やることといえば、二人で街に遊びに出て、観光スポットに行って、ごはん食べて、
 買い物をして、お互いの洋服を見繕ったりとかして――いや、楽しいことは楽しいのよ?
 でもそれって、ただの友達と変わらないんじゃないかなって」

108 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:07:23.00 ID:q+VwYOzw0
「うん」

その意見には大いに頷ける点があった。なおもツンは続ける。

「もっと恋人らしいことがしたいの。たとえば……」

「たとえば?」

僕は小首をかしげてみせる

「……ううん、やっぱり何でもない。なかったことにして」

強引に話を打ち切って、ツンは休めていた箸を再びセットメニューの小鉢へと伸ばした。
僕は何がなんだか分からず困惑するばかりだった。
料理に集中しようとしたのだが、
蕎麦のつゆの塩味がやけに薄く感じられて、結局ちっとも食事をした気にならなかった。





 

110 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:08:17.11 ID:q+VwYOzw0


それから数週間後の日曜日の出来事だ。時刻はちょうど午後三時。

ツンをついに自室に入れた。

本来はシネコンにまで映画を観にいく約束を交わしていたのだが、
突然大雨が降り出したので急遽予定を変更し僕の家で過ごすことになったのである。

付きあい出してから四ヶ月以上の月日が流れたが、ツンを自宅に招いたのはこれは初めてだった。


「結構綺麗にしてるじゃない」

フローリングの床に腰を下ろしたツンが、部屋中を見渡しながら感心したような口ぶりで言った。

「これ敷くといいお」

適当にクローゼットから引っ張り出してきたクッションを手渡す。

「ありがと」

僕も尻の下にクッションを置いてツンの隣に座った。
何なのかは分からないがいい匂いがする。
当然だが、香気の出所は横で膝を抱えているツンしかありえなかった。
脳がふにゃふにゃに溶けてしまいそうだ。

113 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:12:13.34 ID:q+VwYOzw0
「なにかCDかけてよ」

「おっ、じゃあどれがいいかお」

「好きなのにして」

と選曲を任せられたのでCDラックを漁ったが、変に拘泥してしまってこれだと決められない。
そうやってアルバム選びに悩んでいるともどかしがるツンに叱責された。

「もぉう、さっさと決めてよね! 男らしくないなぁ」

無茶を言うなよ、と僕は肩をすくめてみせた。
第一僕にも一応の拘りがあるのだ。

結局ラックから無作為に抜き取ったリターン・トゥ・フォーエバーのCDをコンポーネントにかけると、
二台のスピーカーから「スペイン」の長いイントロ――アランフェス協奏曲――が流れた。
はて、「スペイン」は確か最後に収められた曲のはずだが。
どうやら自分でも気づかぬ間にCDコンポの曲順設定をランダムに変えていたらしい。

しかし結果的にはいい選曲となった。
沈みこむような静けさが蔓延していた部屋のムードが、
陽気なジャズのスタンダードによって穏やかな午後にふさわしいものへと劇的に改善された。
ツンも気分よさそうに乗りのいい主旋律に耳を傾けている。

114 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:13:31.46 ID:q+VwYOzw0
「あれ何?」

「スペイン」が緊張感溢れるアドリブの掛け合いパートに移行したあたりで、
ツンが学習机の上にぽつねんと置かれた文庫本を指差した。

「ああそれ、昨日読んでた小説だお」

「何ていうの?」

「『葉桜の季節に君を想うということ』って名前だお」

「へぇ、素敵なタイトル」

「だお? 中身もいいお。なんせ『このミス2004』の一位!
 だからもう、四年も前かお。だいぶ前に出た小説だけど面白いお。太鼓本を押すお」

本の出来に関しては折り紙つきだ。
ミステリーでありながら再読するたびに新しい発見があって、もう何度読み返したか覚えていない。
間違いなく傑作!
わざわざ文庫本で買い直したぐらいだ。

116 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:14:19.95 ID:q+VwYOzw0
「ふぅん、面白そう。読んでみようかしら」

「よかったら貸してあげるお」

「ホント? ありがとう」

ツンは片目を瞑って応えた。
その瞬間愛おしさがこみ上げてきて、彼女が僕にとってこの上なく大切な存在なのだと再認させられた。

何度見ても美しい。
西洋人形のような顔立ちに深いエボニーブラックの瞳がよく映えている。

早速本の最初のページをめくったツンだが、またたく間に白い頬が薄紅色に染まった。
それもそうだと僕は密かにほくそ笑む。
なにしろ一行目がいきなり「射精したあとは動きたくない」で始まるからである。
その衝撃の冒頭部分を読んだ時は僕も赤面したものだ。

117 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:16:05.46 ID:q+VwYOzw0
「でもまあ、事実は小説より奇なり、だお」

「なによ、いきなり」

「いやあ、どんな推理小説よりも現実に起きている事件のほうが奇怪だなぁってふと思ったんだお。
 ほら、去年出た行方不明者、まだ発見されてないらしいお」

「……その話題、時代遅れすぎるわよ」

ツンは何を今更、といった感じの怪訝そうな顔をした。

「もうニュースでも全然扱ってないのに」

「だけど身近なことだお。気にならないのかお?」

「そりゃあ確かに自分の学校での事件だけど、私には直接には関係ないじゃないの。
 ううん、『私に』じゃないわ。『私たちに』ね。
 そんなのどうでもいいことよ」

素っ気ない返しで話をまとめて、視線を僕の目から外し、ツンは黙々と本を読むことに集中した。
彼女は変なところで能天気だ。僕もこれ以上喋っても無駄だと悟った。
ただ共感できる部分もある。
確かに、例の失踪事件に限らず、過去の出来事を気にしたって仕様がない。
僕たちにはこの先明るい未来が待っているはずなのだ――

119 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:17:21.27 ID:q+VwYOzw0
「ねぇ」

意識が宙を漂っていたところに、急にツンから声がかかり、こちらを見つめてきた。
真剣みを帯びたトーンであるのが多少気がかりだった。

「どうかしたかお?」

「……ううん、やっぱり何でもない」

下唇を甘く噛み、一瞬考え悩むような気色を浮かべたかと思うと、ツンは黙って読書に復帰した。

どうにも腑に落ちない。
一体僕に何を言おうとしたのだろう?
けどこちらから質問し返すことは憚られて到底できるはずもない。
僕はただ口を閉ざすほかなかった。

時間の経過とともに雨粒がガラス窓を叩く音が少しずつ小さくなっていった。

122 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:18:54.41 ID:q+VwYOzw0
『葉桜』を読み始めて一時間ほどが過ぎたころ、突如としてツンは栞を挟んで本を閉じた。
その間僕は古い雑誌を斜め読みしていたのだが、そのパタンという存外大きな音に驚かされた。

しかしその驚きも続くツンの発言には敵わなかった。


「ねぇ、何もしないの?」


五臓六腑がまとめてひっくり返るかと思った。
慌てて向き直りツンと顔を突き合わせる。

「なっ、なにをいきなり!?」

「分かるでしょ、私が言いたいことぐらい」

「けど、いきなりそんなことを言われても……だって君は……」

狼狽から言葉を濁してしまう。

123 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:20:26.01 ID:q+VwYOzw0
「私たち恋人同士なんでしょ。あなたはそういうの、したくないの?
 考えたこともないの?」

「でもそんな、ツンにそんなことするわけないじゃないかお!」

口にしてから全力で悔やんだ。ツンの悲しげな顔を見てしまったからだ――

「まだキスもしたことないじゃない……」

いつもとは正反対の弱々しいツンの声色に息を呑まされた。
憐憫の情さえ抱いてしまうほどの、あぶくが川面に消え入るように頼りない声だった。

こんな時普通の男性ならば、こんなにもいじらしい女の子がそばにいると考えただけで、
下腹部のあたりがうずき出し、いてもたってもいられなくなるだろう。
ただ僕は違った。
そんなことはありえなかった。
ツンは僕を愛してくれている。僕もツンを愛している。
彼女の要求には可能な限り応えてあげたい。
だけど、ツンをどんなに愛おしく想っても性的な欲求だけはどうしても湧き上がってこなかった。
それは僕にとって禁忌に近い所業だった。

125 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:21:53.54 ID:q+VwYOzw0
庭で響いていた雨音は聴こえてこなくなっていた。

「私がなんの期待も覚悟もしてないとでも思ったの?」

ふとした隙に泣き出してしまいそうなツンの哀切滾る表情に僕は困惑し、自責の念に駆られる。

来年は僕も三年生だ。
今年の春から学力向上のために塾にも通い始めたが、
受験シーズンが佳境を迎えれば今とは比べ物にならないほど忙しくなるだろう。
そうするとツンと会える時間も少なくなる。
――そうなった時、どれだけの寂しさが押し寄せてくるだろう?
心に穴を穿たれるような刺々しい感覚に襲われる。

「……すまないお……」

うつむいたツンの背中に腕を回し、目を閉じて、溢れんばかりの寂莫が消えるまで抱擁し続けた。
自分では順調な交際だと思っていた。
けれど現実には、彼女を満足させられていなかった。

126 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:23:17.07 ID:q+VwYOzw0
「ごめん――私のこと、軽蔑した?」

ツンがそんな、いわゆる性行為を望んでいるとは思いも寄らなかった。
今はただ、その告白に重度のショックを受けている。

「まさか! 悪いのは僕のほうだお。だけど今は、少し戸惑ってしまって……。
 ……ちょっと考えさせてほしいお。答えが出るのはいつになるか分からないけど――」

それ以上何も言えなくなってしまった。
ツンが秘めていた希求に応じられなかった自分がひどく情けない人間に思えた。

愛しているからセックスしたいと思うのだろうか。しなければならないのか。するべきなのか。
ツンと僕の関係にも性が絡んでくるのは避けられないのだろうか。

いや、しかし――

僕は歯噛みした。
僕の気持ちがどうであれ、ツンが体での繋がりを求めているのは事実だ。
そしてそれは、きっと当然の感覚なのだ。

127 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:24:01.75 ID:q+VwYOzw0
人を好きになるとはこういうことなのかもしれない。
身をもって把捉させられた。

心さえ通じあっていればいいなんていうのは、所詮子供じみた、甘えた発想にすぎなかったのだと。

いつの日か僕たちも一線を越えなければならないのだろう。
沈黙に心を潰されそうになるのを堪えながら、ツンの肩を強く抱いてそう誓った。

今にも壊れてしまいそうな繊細な想いだった。








 

129 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:25:34.26 ID:q+VwYOzw0


月が変わり季節の陰影が色濃くなり始めたころ、今度は僕がツンの邸宅に行くことになった。
前日にツンから誘いがあったためである。
地図の写真もメールで送られてきた。まったく便利な世の中になったものだ。

足を運ぶついでにタワレコに寄り、新しく出たCDを二枚購入した。
もちろんツンに渡すためだ。彼女が以前に好きだと語っていたバンドを暗記していた。

「『チェイス・ディス・ライト』かお……」

バスの中で買ったCDのうちの一枚を眼前にかざし、そのタイトルを小声で読み上げた。
シンプル極まりない英単語の羅列が、ちょうど自分の心境を代弁しているかのように思えた。
僕は今まさにツンという光明を追い求めている。

130 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:26:34.63 ID:U1DH01Fk0
小道に入って携帯電話のディスプレイに表示された地図片手に住宅街をぐるぐると廻り、
分譲住居の密集地帯を抜けると黒色クレート屋根の屋敷が見えてきた。

こっそり覗くと、庭には背丈の低い樹木が植えられていて、
淡い桃色を基調としたグラデーションの鮮やかな木瓜の花がぽつぽつと咲いている。
春も終わったというのに随分と長く開花が続いているものだ。
僕とツンの関係も同様に、季節が移り変わっても続いていけばいいなと、ふと考えてしまった。
いやそれは少し違う。
恋愛とは常に陽気な春を過ごしているようなものである。
このまま何の変化もなくその暖かさに依存していたほうがよほど幸福なのだろう。

――それはさておき。
地図によればここがツンの自宅であるはずだ。

試しにチャイムを鳴らしてみると、玄関先に取り付けられたスピーカーホンからツンの声が流れてきた。
「僕だお」と一言マイクに向けて呼びかけると、
ただちに家の中からドンドンとツンが階段を下りているであろう音がし出した。
特徴的な語尾を持っていてよかったと生まれて初めて痛感した瞬間である。

「あら、これ……」

真っ先にツンは僕が持っている黄色いビニールの手提げ袋に視線をやった。

132 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:27:57.74 ID:lSY0Xb080
「途中で買ったんだお。プレゼントだお。
 ツンには小洒落たものよりも、こういった趣味の品のほうがいいかなと思って」

「どういう意味よ」

「いや、その……ね」

一瞬ツンは頬を膨らませたが、すぐに機嫌を戻して、

「でもいいの? ホントに? なんか悪いなぁ、誕生日ってわけでもないのに」

「僕の気持ちだお」

本音を言えば、先日自宅に招いた時にツンを傷つけてしまったことへの償いの意味合いもあった。

ただそのことは口に出さなかった。
彼女に気を遣わせてしまう。
この程度の出費で彼女が僕に対する失望を打ち消してくれるならば安いものだ。
ツンのはにかんだ顔が胸を熱くさせる。

133 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:30:59.98 ID:lSY0Xb080
「ありがとね……えと、とにかくあがってよ。玄関で立ちっぱなしもなんだから」

「お邪魔しますおー」

「別にそんなの言わなくていいわよ。今親いないし」

先を行くツンの案内で二階に上がり部屋まで招き入れられた。

ツンの自室には床一面にクリーム色のタイルカーペットが敷き詰められており、
香のような安らかな匂いが立ちこめていた。
部屋の中心にはメイプルの円卓がちょこんと置かれていて、それを囲むようにして腰を下ろし、
室内の模様に興味の目を走らせると、実に可愛らしい装いをしていることが一目で分かった。
自慢であろうCDラックには白いクロスがかかっている。

「あんまりじろじろ見ないでよね」

ツンは面映ゆそうに興味の眼差しをほどほどにするよう僕に目配せすると、
部屋隅の棚から一冊のブックカバーの外された文庫本を取り出して、

「はい、これ」

と幽かな笑みを添えて僕に手渡した。この前貸した小説だった。

134 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:31:42.22 ID:lSY0Xb080
「どうだったかお?」

「面白かったわよ」

ツンはそこまで言うと、一瞬わざとらしく悔しそうな表情を作ってから舌を少し突き出して笑い、

「二回も読まされちゃった」

と付け加えた。
短い感想だが、それが彼女がこの小説の趣を理解してくれていることの証となり、僕は妙に嬉しくなった。

「テレビ見る?」

僕が答えもしないうちからツンはテレビのリモコンをせわしなく操作していた。

「あー、でも、あんまり面白そうな番組やってないかも」

「そりゃそうだお。まだ四時だお」

壁にかかった時計を指差して僕は言った。
ツンはまだチャンネルを細切れに変えながらその度に小さな欠伸を漏らしている。

136 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:33:45.81 ID:lSY0Xb080
「だけど休日なんだから、なにかひとつぐらい見たくなるような番組やってるものなのになぁ」

「ホントだお。来場所が始まったら、大相撲があるのに……」

「えー、相撲なんて見るのぉ?」

ツンが「変わってるー」とでも言いたげなふうな声を上げた。

「……何か悪いかお」

「だって、ねぇ、なんかオジサンくさいもん」

「よりによって『オジサンくさい』はないお。
 相撲だって楽しいもんだお? 若い人や子供や女性にも人気が出てきてるし。
 それに個人的にだけど、来場所は豊真将の三役昇進がかかって――」

弁舌をふるう僕とは正反対に、ツンは「ふぅん」とやる気なく頷くだけで徹底して無関心を貫いていた。
豊真将が前場所、前々場所と勝ち越していることなど露も知らないだろうな、とか思いつつ、
僕はそこで話を打ち切った。

もっとも僕は他のスポーツに関してはまったく無頓着である。
例えば、去年のプロ野球で中日と日本ハムのどちらが日本一になったかももう覚えてないし、
Jリーグに至っては浦和が人気があるという程度の知識しかない。
だからこそ唯一自分の知りたる相撲を小馬鹿にされたことに対して特別に熱くなってしまったのだが、
ツンからすれば、自分の興味のない話題を持ち出されても鬱陶しいだけだろう。
おとなしく口を噤んだ。

137 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:34:56.94 ID:lSY0Xb080
「どうしたのよ」

「別に……」

「怒ってる?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

「もう! だったらそのぐらいで落ち込まないでよ。
 そんなふうにされたら私がすっごい悪者みたいじゃない」

「ごめん、ごめんお」

「どうせ言ってくれるんなら『ごめん』じゃなくて『好き』のほうがいいな」

わざとらしくしおらしい声を出して、ツンはねだるように僕の目を覗きこんでくる。
はぁ、と僕は長息を吐いた。

「ツン、好きだお」

「よろしい」

ツンは僕のすぐ隣、相互の肩と肩が触れあうまで近寄って座り直した。

140 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:36:23.56 ID:lSY0Xb080
結局適当なチャンネルに合わせてBGM代わりにすることにした。
僕はどうでもいい旅番組などよりも、右隣で画面を見つめるツンの横顔を眺めていた。

「あー、A7X来日しないかなー」

そんなことを呟いている。前のサマソニで来たばかりじゃないかと突っこみたくなる。
そして欠伸。
相変わらず退屈そうにしている。
けれどその潤沢を帯びた瞳には、何かを期待しているかのような輝きが秘められている。
それは訊くまでもないことだった。

けれども僕が実行に移すより早くツンは胸を熱くさせる呪文を紡いでいた。


「ねぇ、キスしようよ」


彼女が僕を見た。僕も彼女の目を見返した。

――やがて動悸が訪れた。

ツンが唇を重ねてきたのが原因だということに気づいたのは、口づけのための数秒間が過ぎ去ってからだった。
あまりにも短い愛の刹那だった。

141 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:38:09.62 ID:lSY0Xb080
「私、初めてよ。ブーンも?」

こくりと黙って頷く。顔が茹だったようになっているのが自分でも分かる。

「……今度はそっちからしてよ」

抜けるように白い頬を紅潮させてツンが言ってきた。
誘われるがままに僕はツンにキスをした。
キスの作法なんて知りもしない。
ただ目を瞑ってツンの口唇の柔らかな感触を確かめていただけだった。

どくん、と波打つような心音が聴こえてくる。
その音がはたして僕のものなのか、あるいはツンのものなのか、それは判別がつかない。
つくはずがない。
僕の頭はすっかり惚けてしまって何も考えられなくなっていた。


「……んっ、ちょっと、長いって!」

逃れるように唇を離すと、ツンは大きく息を吐いた。

「息、できなかったじゃない!」

「あっ、ごめんお……」

142 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:39:00.91 ID:lSY0Xb080
ツンはしかし、羞恥を垣間見せながらも嬉しそうに破顔していた。
日頃と変わらないきりっとした態度を装ってはいるが、内心では欣喜雀躍しているに違いない。
あからさまに幸福感に浸っている顔つきでしきりにこちらの様子を窺っていた。

僕はどんな表情をしているだろう。
凍っているだろうか、溶けているだろうか。
笑えているのだろうか。
自分が何をしたのか、何が起こったのか、今となっては夢の中の出来事のようで、実感がまるでない。
ただ口元に指をやると、そこには自分のものではないな不可思議な温度があった。
紛れもないツンとのキスの名残であった。

そこで我に返った。

先程の行為が改めてフラッシュバックされてきた。
ああ、自分はとうとうツンとファーストキスを交わしたのだ。
心のどこかでは自分もそれを願っていた。
けれど嬉しさよりも底知れぬ後ろめたさが勝っているのはどうしてだろう?
一般には喜ばしいことであるはずなのに――

しばらく会話が途絶えた。目を合わせることも気恥ずかしく思われた。
先に口を開いたのはツンだった。

「もうちょっと恋人らしいキスをしてほしかったな」

言葉とともに、熱くなった僕の心をさらに焦がす悩ましげな上目づかいの光線が送られてきた。

144 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:40:24.72 ID:lSY0Xb080
「ごめんお。そういうの、知らないから……例えばどんなふうにすればよかったんだお?」

「それは……その、舌を絡めるとか……えー……歯の裏を……」

ごにょごにょと聞き取りづらい声でツンは言った。
そうして口ごもり、顔を火が出そうなくらいに赤くさせた。

「やっぱダメ! 今のなし! 今の話なし!」

「えっ、だって」

「何でもないってば!」

「『歯の裏を』ってどういうことだお?」

「やだもう、言わせないでよ! 恥ずかしい!」

ツンは真っ赤になった頬を両手で押さえた。

146 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:41:51.46 ID:lSY0Xb080
「……ねぇ」

二十秒ほどの無言の時間が過ぎてから、落ち着きを取り戻したツンが猫撫で声を出した。
これまでに聴いたことのない、やたらと色気のある声色だったのでぞっとした。


「さっき親いないって言ったでしょ、だから――」


彼女が何を言わんとしているのかはその甘えた素振りからして自明だった。
そして、隠し切れていない隔靴掻痒の感がその態度の裏側にはある。
「いい加減もう構わないでしょう」とでも僕を諭したげな、情熱的な目つきをしている。
ツンは僕の肩に寄り添い、右手で僕の腹のあたりを触りながらシャツから胸元をちらちらと覗かせている。
――だがここまでされても僕はまだ踏ん切りがつかなかった。
どうしてもそれだけは、という、自分を激しく抑圧する理性が依然働き続けていた。

「ねぇ」

焦らされたツンが再び熱っぽい声を発した。

「どうして……?」

148 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:44:44.95 ID:lSY0Xb080
今度は潤んだ目で見つめてきた。
とても辛そうに眉をひそめている。

しかし彼女にこんなにも求愛されているというのに、僕も彼女を死ぬほど愛しているというのに、
セックスに対して乗り気には至れなかった。

「私のこと嫌いなの?」

「そういうわけじゃ……」

「ならいいでしょう? 私がいいって言ってるのよ。
 あんまり女の子に恥かかせないでよね!」

部屋中に響き渡るぐらいの大声で叫ぶと、ツンは無防備な僕の首に抱きついてきた。
そうして僕の右肩に顔をうずめた。
きつく抱きしめられた首筋がとても痛い。
彼女の腕力以上の、何か激しい、重々しい別の力が作用しているのではないかと胡乱な頭で考えさせられた。

更にツンは胸を腕に押しつけてきた。
乳房の柔らかい感触が煽情的なまでに伝わってくる。

149 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:46:28.35 ID:lSY0Xb080
「私はね、あなたのことを想って――その――したこともあるのよ」

「へっ?」

「……・もう、分かるでしょ!」

彼女の台詞の意味を理解した瞬間、今度こそ心臓が破裂してしまうかと思った。
衝撃の告白だった。

「そう……なのかお……」

「あなたはないの?」

愛するツンのことを想って自慰行為に耽る自分の姿を想像した。
反吐が出そうだった。
ひどい嘔吐感と、少しでもそんなふうに考えてしまったことへの罪悪感に苛まれ、胸が潰れそうになる。

僕は返す言葉を見つけられず口を閉ざすほかなかった。

151 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:47:58.72 ID:lSY0Xb080
「私はそのぐらい好きなのよ」

ツンはだんだんと強引になっていった。苛々しているのが傍目にも分かった。
呼吸は荒く、端麗な双眸は赤く充血し、膨らんだ胸の部分は艶めかしく上下している。
外ではお目にかかれない痴態である。
それだけ本気なのだろう。
ちゃんと答えを出さなければツンは僕に幻滅してしまうに違いない。

首を振ってはっきりと否定の意を示すことは簡単だが、そんなことが果たして僕にできようか。
彼女は真剣だ。
拒むわけにはいかない。

それでも、まだどちらを選択すべきなのか決断できない!

しかし彼女自身はその気高い純潔さを放棄するのを微塵も厭わないでいる。

胸が痛い。
性の問題が僕を苦しめている。
ツンはそれを求めているし、行為自体に何かしかの罪があるわけではない。
恋人同士ならおそらくきっと当たり前のことなのだ。
あとは僕が同調するだけだ。だが、しかし――

152 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:49:32.09 ID:lSY0Xb080
「ねぇ、いいでしょ。お願い――」

とツンが吐息を漏らしながら懇願してきた時だった。


「あっ……どうしよっ、母さん帰ってきちゃった!」


一階からがちゃりという音が聴こえてきたのに合わせてツンがぱっと僕から離れ、頓狂な声を上げた。
巻きついていたツンの腕からようやく解き放たれた。

さっきのは間違いなく扉の開いた音である。

「七時まで買い物するって言ってたのに! 嘘吐き!」

小声で、けれど非難めいたトーンでツンはぶつぶつと独り言を述べた。
僕は所在ない心地を覚えた。
ただ心のどこかでは、助かった、とほっとする部分があって、
ツンの希望を裏切ってしまったような気分になり、自分が恨めしく、たまらなく厭になった。

154 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:50:45.93 ID:lSY0Xb080
「ごめん」

と意識もなく口にしていた。

「ああ……うん、もういいの……」

急激に現実に立ち返ったためにツンもまた動揺を抱えているようだった。
額には汗が滲んでいる。
テンションの糸が切れたのか妙に冷静で、先程までとはうってかわって含羞の表情を浮かべていた。
踵鬱の症状に似ていた。

「その……また変なこと言ってごめんなさい。
 ……私、最低よ。
 馬鹿で、ワガママで、自分の欲だけを押しつけて……最低の変態よ、私って。
 そうよ、変態なのよ。一日中エッチなことばかり考えて、私、きっとどうかしてるのよ」

ツンは悲しそうに目を伏せた。
胸に幾本もの棘が突き刺さるような峻烈極まる感覚が僕を襲った。

155 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:52:33.27 ID:lSY0Xb080
「嫌いになったでしょ?」

「そんなこと……」

ツンはほとんど自棄になっている。
僕は巧い対応を思いつけず、言い澱んでしまった。

彼女に何の非があろうか?
愛する相手のすべてを求めて何が悪い。それが愛というものではないのか。
今になってようやく得心がいった。

ただ――頭ではそう理解していても、やはり自分はツンとのセックスに対する抵抗を失くせないでいるのだ。
以前の同じような出来事からなんの進歩もしていない。
本当に惨めな奴だ、僕は。
責められてしかるべきなのは自分のほうだ。

「違うお……全部僕が情けないせいだお」

「……えっ?」

156 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:54:12.70 ID:lSY0Xb080
「ツンのことを嫌いになんてなるわけないお。
 それにそんなことを考えるのは、思春期の僕らには普通のことだお。
 僕だって、その、そういう光景を夢想することはいくらでもあるお。
 ただ……その、いざ実際にしようとすると、経験がないから尻込みしてしまって……。
 本当にすまないお」

といっても決してツンが性の対象として空想世界の中に出てくることはなかったのだが、
その真実は嘘のオブラートの中に包んだ。

「むしろ、こんなにも頼りないから、僕のほうこそ嫌われるんじゃないかって――」

「まさか! そんなふうに思うはずないじゃない!」

「よかったお」

一旦話を切ってから、

「ツン……今度こそ君の期待に沿えるようにするお」

そうなのだ。本来なら自分がリードすべき立場であるべきなのだ。
二度もツンの純粋すぎる気持ちを踏みにじってしまっている自分の不甲斐なさを呪ってやりたかった。

157 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:55:33.66 ID:lSY0Xb080
「だから――」

と僕が言いかけた時、

「ツーンー、二階にいるのぉ? お母さん帰ってきたよー」

ツンの母親の間延びした声が階下からあった。
扉越しにもはっきりと聴き取れるほどの音量だった。

「国道沿いのケーキ屋さんでシュークリーム買ってきてるわよー。
 早く下りてきなさーい」

「ああん、ちょっと待ってて! 今友達来てるから!」

ツンが焦って返答をする。

「……悪いけど」

僕の目を見ながらツンは申し訳なさそうに唇を動かした。

「ああうん、僕は大丈夫だお。帰るのは残念だけど」

本心を白状してしまえば、自分も早くこの場から立ち去りたかった。
ツンのプレッシャーにとてもじゃないが堪え切れないのだ。
僕はなんて下衆な根性をしているんだ!
性懲りもなく偽りの言葉で誤魔化してしまうだなんて。

159 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:57:38.48 ID:lSY0Xb080
ツンと部屋を出て階段を下りた先で彼女の母親に対面した。
無視するわけにもいかないので簡易に挨拶をした。ツンは僕のことをただの友達だと説明した。
その際に「いい名前! 画数最高よ」だとか「可愛らしい顔ね」だとか「それに真面目そう」とかいう、
あまり嬉しくもないお世辞をたくさん頂いた。
今の時代「真面目」だなんて褒め言葉になっていないような気もするが、とりあえず愛想笑いを返しておいた。

「一緒に食べる? お父さんの分があるから」

ともツン母に勧誘されたが、丁重にお断りを入れておいた。長居したい気分ではなかった。
そして性急にお暇を告げた。

「お邪魔しましたお」

親子二人がリビングに行くのを確認してから、誰の見送りもなく僕はツンの家を出た。
既に辺りは薄暗い。
一歩足を外に踏み出すと、どっと疲労が押し寄せてきた。

もうこうしたやり取りはしたくないと心底思う。





 

161 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 00:59:56.40 ID:lSY0Xb080




どこまでも広がっていそうな深い暗闇の中、いずこともなく幽かな声が聴こえる。

「……助けて……」

女性の声だ。
それも、よく耳にした――

「助けて」

今度は明瞭に聴こえた。
同時に視界が一気に開け、自分の周りをコンクリートの壁が囲っていることが分かった。

ここは個室のようである。

しかし窓も家具も何もなく、個室と呼ぶよりは独房という表現のほうがこの空間には遥かに適切に思われた。
天井を見上げてもコンクリートだ。
床を見下ろしてもやはり冷たいコンクリートだ。
無機質な灰色で覆い尽くされたこの場所は紛れもなく独房であった。

162 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:01:24.21 ID:lSY0Xb080
「助けて」

また甲高い声がした。

それに従い謎の声の出所がついに判明した。
後方だ。
振り返ると、部屋の隅で――意外と奥行きがあった――同年代と思しき女の子が屈んで座っている。
一糸纏わぬ生まれたままの姿だった。
うつむいいているから顔は分からない。
どうやら一人のようだ。いや、僕を含めれば二人か。

「助けて!」

花に誘われる蜜蜂のようにふらふらと近寄ると、裸の女の子は顔を上げて大声で叫んだ。
まさしく鬼気迫る形相だった。


転瞬。


少女の首が千切れ飛んだ。

164 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:03:15.80 ID:lSY0Xb080
刃物があてがわれた様子もなく、ただ自然に首から上が吹き飛んだ。
あたかも何者かに切り落とされたようにだ。

首の切断口から豪快に血が噴き出し、ほうぼうに飛散し、四方のコンクリートを赤く昏く壮絶に染めていく。
僕の身にも血の雨が降り注いだ。
鉄が焼けるような臭いが鼻腔を刺す。

あまりの惨状と理不尽さに僕は茫然自失の状態に陥った。

これは一体どういうことだ!?

混濁していた思考がはっきりし、辺りを見渡す余裕ができた頃には、既に血液の噴水は鎮まっていた。
頭部を失った胴体は緋色の水たまりに浸って倒れていた。
壁と天井には赤い斑点が不規則に付着している。
プログレッシヴアートを想い起こさせられる風景だった。

そこから目を切って衝動的に視線を落とすと、
鮮血に塗れた女の子の頭が――「かつて頭だったモノ」が僕の足元に転がってきていることに気がついた。
僕はまだ温かいそれを拾い上げて顔中の血を手で丁寧に払った。

そして戦慄した。

血を拭ったはずの手の平には、どういうわけだか何の液体も付いていない。

166 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:06:07.67 ID:lSY0Xb080
濡れた感覚さえない。
のみならず、周囲をもう一度慎重に見直してみると、部屋中を汚していた黒血は綺麗さっぱりなくなっていた。
あれほど大量に噴き出ていたはずなのに跡形もなく消失している。

いや違う、消えたのではない。おそらくは最初から血など出ていなかったのだ。

あれは幻覚だったのか。もしくはただの自分の勘違いか。
頭にまたしても混乱が生じる。
唯一解っているのは、女の子の骸と生首だけが確実にこの場に存在しているということだけだ。
鍵と呼べるのはこの見覚えのある人物だけだ。
ありとあらゆる怪奇現象を依然訝しみながらも、手の中にあるモノを奇妙なくらいの沈着さで観察した。


――僕は彼女を知っている。

彼女は――





 

167 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:07:37.18 ID:lSY0Xb080


「――ああああああッ! あぁ!?」

絶叫と共にベッドから跳ね起きた。

周囲をキョロキョロと警戒するような目つきで見回して、
先程までの光景が現実世界での出来事でないことが分かると、途端に莫大な安堵感を得た。


夢を見ていたのだ。
それも飛び切り壊れた悪夢を。


枕元の目覚まし時計を視認すると、午前三時を少し過ぎたところだった。
全身汗だくになっている。
湿ったシャツの肌触りがなんとも気持ち悪い。
張りついた下着を皮膚から引き離すと、その不愉快な感触に、先刻の夢の記憶が脳裏に蘇ってきた。

猛烈な吐き気と頭痛がした。

169 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:09:11.74 ID:lSY0Xb080
明らかな絵空事であるはずなのに、ただならぬリアリティがあの夢の中にはあった。
ガンガンと鳴り響くように痛む頭を抱えて恐怖する。
虚構に違いないのに、あたかも現実に起きた出来事のように感じられる。
それもすべて登場人物のせいだろう。
あの空虚な部屋にいた女の子は、首を切り離され無残な姿で絶命した女の子は、

見紛うことなくツンであった。

僕はたまらず喉元を掻き毟って脳内の映像を振り払った。

「ああ……はぁ……はぁ……」

いや、違う! そんなはずはない! あれは決して現実なんかではない!

忘れてしまおう。
そうだ、それがいい。悪い夢は忘却するに限る。
かぶりを振ってひとつの決断を下し、布団を掛け直してから心の中で幾度となく反芻した。

現実じゃない、現実じゃない、現実じゃ――





 

170 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:12:49.05 ID:lSY0Xb080


期末考査の日が差し迫ってきた頃のこと。
塾から帰宅し自室に入った時には、デジタル時計の時刻表示はとうに二桁に達していた。

まずはツンに一通メール。これは欠かせない日課である。
その後でプライベートの時間に帰還した。
夕食は既にコンビニで済ましてあるのでさっさと入浴をすることに決め、
制服のネクタイをほどき鞄をベッドに放り投げてから風呂場に向かい、
湯船に長々一時間ほど浸かって疲れをとった。

浴室から部屋に戻ってテレビをつけるとちょうどNHKで深夜の報道番組をやっていた。
僕は日頃ドラマやらバラエティやらを滅多に見ないので、必然的にNHKに合わせていることが多くなる。
ツンは僕とは真逆だ。
たまのニュースと、紅白歌合戦の時しか――といっとも昨年は「珍しいから」という理由で、
徳永英明の出演シーンしか視聴しなかったらしいが――わざわざ国営放送なんて見ないと嘯いていた。
そもそもニュース程度なら民放でも事足りるのだが。

それはともかく、番組ではなかなか興味深いことを扱っていた。


『えー未だ未解決のニューソク町で起きた行方不明事件ですが――』

171 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:13:57.12 ID:lSY0Xb080
どうにも特番らしい。
なぜ今頃こんな古い事件を取り上げているのかと不思議に思ったが、
キャスターの女性によれば今日が行方不明者の誕生日とのことだった。

『そうですね。本来なら、今日の今頃は高校生活を謳歌していたことでしょうに……』

それにしては内容が不謹慎だ。
まだ亡くなったと決まったわけではないのに、死者を悼むような語り口で出演者は発言している。

『残された遺族の方にも……あっ、失礼、家族の方でした。お詫びして訂正いたします』

こんな文句まで飛び出す始末だった。
まあ生きている可能性は限りなくゼロに近いけれど。
なにせかなりの月日が経っているのだ。
遺体が見つからず表向きは生死が判明していないとはいえ、誰しもが見当はついていることだろう。

しかし自分の関心を引きつけたのは不明者に関することではなく、
その後に語られた「連れ去り事件だとすれば犯人とはどのような人物であるか」という議題だった。

173 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:15:16.69 ID:lSY0Xb080
いかにもといった感じの専門家らしき中年男性が重々しく口を開く。

『いるかいないかも分からない犯人について語るのは気がひけますがね、
 まあいるとすれば、同世代の人間の犯行じゃないでしょうか』

『と、言いますのは?』

『論拠ですか。そうですね、まず第一に交友関係からの推理ですね。
 通り魔的犯行ならこれほどまでに捜査に苦労しないでしょう。
 以前にも若者が行方不明になって結局のちに殺人だと分かった事件がありましたが、
 その時は手口がが大変杜撰なものでしたから犯人の特定にはそう時間を要しませんでした。
 そのぐらい難しいことなんです、完全犯罪は。
 前々から周到に計画していなければ警察の目を撹乱することは不可能ですよ。
 そこまで日本の公安機関はマヌケではありません。
 ということは、かねてより被害者を、失礼、不明者を知る人物の仕業と考えるのが妥当です。
 でなければ動機が成立しませんし、そうすると用意もできませんし、なによりも時期よく接近が図れない。
 事故の可能性も捨て切れませんからこれ以上は何とも言えませんが』

『予測される犯人像をもっと具体的にお願いできますか』

女性キャスターが質問する。

174 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:17:10.39 ID:lSY0Xb080
『ですから、いるかいないかも分からない……えー、答えるべきですか、そうですか。分かりました。
 おほん。
 えーとでは、亡くなっているという前提で話させてもらいます。よろしいですか。
 これはあくまで仮定ですけどね、おそらく不明者に恨みを持った同級生じゃないでしょうか。
 接触する機会の多さを考慮するとそのケースしか思い当たりません。
 そうなると学生ですから遺体を運ぶのに車は使えませんので、それなりに体格のいい人間でしょう。
 殺害場所と遺棄場所が同じというパターンは考えにくいですし』

『では身体の大きな男性ということですか?』

『でしょうね。もしかしたら愛憎による凶行かもしれませんが』

『その場合は女性だと』

『まあそちらの確率は低いでしょうけどね。運搬の都合で。もし女性だとすれば――』

そこでテレビを消した。
これは行方不明になった生徒の両親が見ればあまりの配慮のなさに怒り狂うだろう。
他人の僕でも多少そう感じたぐらいだ。
所詮はツンの言うように「私たちには関係のないこと」なのかもしれないが、
それでもやはり災難にあった人について当事者以外の人間が好き放題語っているというのは、
あまり見ていて気持ちのいいものではない。

175 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:18:41.92 ID:lSY0Xb080
ただ不快ではあったが内容には考えさせられるところはあった。
犯人について推測したことなどなかったが、そんな自分には専門家の筋立てられた論述は成程と頷けた。

「ガタイのよくない男性や女性は無理、かお……」

その時。嫌なアイデアが頭をよぎった。

死体をバラバラにしてしまえば非力な人でも運べるではないか。

不意にその猟奇的な現場をイメージしてしまいぞくりとした。
背筋を凍らせながら、気を紛らわせるために携帯電話を拾い上げて着信があるかをチェックした。


ツンから「おやすみ」とメールが入っている。

177 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:21:25.54 ID:lSY0Xb080
携帯のディスプレイの右上に表示された時刻を見ると既に日付が変わる寸前だった。

けれど床に就く気にはとてもなれない。
眠りたくないのだ。
最近は、毎晩のようにツンが首を刎ねられて死ぬ夢にうなされている。
忘れようと念じ続けているというのにだ。
そして――おぞましい悪夢はそっくりそのまま強迫観念のようになって、僕の心身を蝕んでいた。

いつまでこの苦しみは続くのだろう?





 

178 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:23:00.08 ID:lSY0Xb080


ついにテスト期間に入った。
お互いにテスト勉強の時間を取るためにこの二週間はツンとのデートは控えていた。
そしてようやく今日がテスト最終日だ。
今回こそはいい点を取らなければと意気込んで臨んだ試験だったので手応えは相当にあった。

最終試験科目が終わり下校しようと足早に歩いていると、階段を降りた先にツンがいた。

「久しぶり」

ツンが片手を上げて挨拶してきた。

「今テスト終わったの?」

「そうだお。というか終業は全校同時じゃないかお」

「あれ、そうだっけ。まあいいじゃない。それよりテストどうだった?」

「自分で言うのもなんだけど、かなりのもんだお」

僕は揚々と胸を張った。

180 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:25:40.22 ID:bL2optN20
「そっちは?」

「うーん、私はあんまり。特に今日の古典が出来なかったな。それと一昨日の日本史も」

ツンは苦い顔をした。
いかにも理系といったふうな苦手教科の組み合わせだった。

「なんか顔色悪いわよ、ブーン」

「そうかお?」

「そうよ」

ツンは僕の額に手を当てた。
熱を計っているようだが、僕を侵しているのは病ではない。
「変ね」とツンは不思議そうに呟いた。

「一緒に帰りましょう」

了解して並んで歩き、高校の正門を出た。

ただ今の自分からすればあまり会いたくないというのが実情だった。
彼女の自宅を訪問した時に大失態をしでかしてしまったせいもあって、顔を合わせづらかった。
それになにより、あの夢を見て以来、ツンと会うということ自体に得体の知れない気味悪さを感じている。
あれは何の暗示だったのだろう――

181 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:27:25.32 ID:bL2optN20

「……ねぇ、聞いてるの?」

唐突にツンが話しかけてきた。
いや、正しくはこれまでにもずっと僕に喋り続けていたみたいだった。
いつの間にやら僕たちは交差点を通過して駅へと続く道をてくてくと歩いている。

「おっ、何がだお?」

「私の話よ。連日遅くまで勉強してたらノイローゼになりそうだったって」

「ああ、ごめんごめん、聞き逃しちゃったお」

どうやらツンは愚痴を吐いていたようだ。
柳眉を吊り上げ、見るからに機嫌の悪そうな態度を示していた。

「もう、別にいいけど恋人の話ぐらいちゃんと耳には入れてよね!」

「すまんお」

軽い感じで謝り許しを貰うと、ツンが突然ぴたりと足を止めた。
つられて僕も停止した。
何か異常でもあったのかと思ったら、

「ちょっと寄り道していきましょうよ」

と、必死に隠し続けていた秘密を打ち明けるような神妙なトーンでツンが言った。

183 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:29:26.35 ID:bL2optN20
彼女の提案に乗せられるがままに進路を変更すると、
手を引かれて連れてこられたのは町の真ん中から離れた団地の近辺にある小さな公園だった。
遊具はといえば滑り台とブランコが一基ずつあるぐらいで、
まるで人気がなく、僕ら以外には誰もおらずにやたらと静かだった。
野良猫の息吹さえ感じられなかった。

「ねぇ」

二セットあるうちのベンチのひとつに並んで腰かけると、
ツンが前にも耳にしたことのある誘惑的な声色でそっと話しかけてきた。

「ここ、今の時間なら誰も来ないわよ、きっと」

さぁと風が木の枝を揺らす音がした。

確かに人の来る気配は欠片ほども受け取れない。
ツンは体をこちらにすり寄せた。

「前にもここに来たことがあるのかお?」

「うん。といっても、友達と数回来ただけだけど。
 ここってあまり人が訪れないから静かでいいのよ。二人っきりの時なんかは特に」

184 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:31:13.84 ID:bL2optN20
「そうなのかお」

事情を察知して、ツンの両肩に手を置いてじっと目を見つめた。
彼女もそれを期待しているようだった。

僕はツンに顔を近づけて、言葉を発さずに唇を重ねた。

そして前回求められたとおりに舌をツンの口内へと突き入れる。
しばらく唾液の絡んだ舌同士を交差させてから、舌先で歯茎をなぞり、柔らかい上唇を甘く噛んだ。
塞がれたツンの唇の隙間から温かい息が漏れ出て僕の顎やら頬やらに当たる。

なおもキスを続ける。
一分近くの間ツンの口腔を味わっていた。

率直な感想としては、到底心地よいものではなかった。
強烈な息苦しさを覚えたのみである。


なぜだ!


胸も裂けよとばかりに彼女のことを愛しているというのに、
背徳的な行為を犯しているような気分になってしまって、どうにも抵抗がある。
もちろん口には出さなかったが――

186 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:33:24.47 ID:bL2optN20
「……あのね」

僕との間隔を詰めてツンが囁いた。
さながら小鳥の囀りめいた、清涼感に溢れた声で。


「ここ、誰も来ないから――」


ツンは僕の拳を両手で包むように握った。


その瞬間だった。

先程まで誘うような微笑を浮かべていたツンの顔が、なんの前触れもなく頭ごと消滅した。


少女は骸になった。


まるで透明の刃によって首を切断されたように。
それはいつか見た夢と一切合切同様の、僕が恐れてやまない光景だった。
もちろん出血はない。
だがツンの美しい顔は僕の瞳には映りこんでいない。

187 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:35:25.71 ID:bL2optN20
ツンの首は消えている。

公園内の時間は静止していた。
揺れていたブランコ、風に舞って地を這う落ち葉、空に漂う雲の動き、空気の流れから何まで、
視界の内側に点在するすべてのものが活動をやめているように視えた。

ツンの首は消えている。

畏ろしかった。無色、無音、無運動の世界が、尋常ならざる畏ろしさを醸し出していた。

ツンの首は消えている。


ツンの首は消えている。

189 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:36:41.33 ID:bL2optN20
僕はたまらずツンから顔を背けて吐いた。
吐き出した胃の中のものが地面に落ちる水っぽい音が耳朶を打った。
酸のきつい臭いが土に混じった吐瀉物から立ち昇ってきて、それが更に吐き気を促進した。

ひとしきり吐いてから顔を上げると、

「どうしたの!?」

動転するツンの声を背中で聴いた。

息も絶え絶えに振り返ると、いつもと変わらない――頭部を欠損していないツンの姿があった。

幻――だったのか?
僕の気が狂っていただけなのか!?

「大丈夫……?」

不安げな表情をしてツンは僕にポケットティッシュの袋を差し出した。
急に吐き出した僕の容態を案じているようである。
そして僕の震える背中をさする。

190 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:40:01.41 ID:bL2optN20
「一体どうしたのよ、突然……勉強のしすぎで体を壊しちゃったの?
 それとも別になにか……ねぇ、大丈夫なの?」

ツンは温かい手を僕の顔に移すと、左の頬をそっと撫でた。
あろうことか、僕はその行為を――


――恐ろしいと思ってしまった。


ツンの気遣いをありがたいと思うと同時に、えも言われぬ不気味さを覚えたのだ。
僕はひっと押し殺したような悲鳴を発してベンチから立ち上がり、ツンの手から離れた。

――そうだ。
今ようやく発覚した。

ツンだ――

僕を苦しめているのはとどのつまりツンなんだ。
あの悪夢に欠かさず出てくるツンの亡骸のせいだ、だから現実のツンにも怖れおののいてしまうのだ。

192 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 01:41:17.15 ID:bL2optN20
「ブーン……?」

「来ないでくれお!」

僕の発した大声にツンはびくりとした。

「お願いだから来ないでくれお!」

泣きじゃくりながら咆哮した。慟哭に近い叫びだった。
頭は真っ白になっている。
ただひとつ――正体不明の多大な恐怖感だけが自分の心を占領している。

僕は逃げるように公園から立ち去った。
残されたツンのことを考える余裕も、思いやる優しさもなかった。





 

208 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 02:45:23.04 ID:bL2optN20


悪夢を見なくなった。
その代わり、僕はかつてないまでに鬱屈していた。
毎日が心苦しさの連鎖だ。重複だ。継続だ。

要因は分かり切っている。

ツンをないがしろにしてしまったからだ。

公園での出来事以降、ツンと何日も、いや十何日も連絡を取っていない。
ツンに申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、謝罪しようにも逡巡を繰り返すだけだった。

もうずっと彼女に会っていない。
愛情は今も冷めていないのにだ。

止まってしまった時計の中にツンを放置したままでいいわけがない。
できるならば今一度謝るチャンスが欲しい。
そのために何か行動を起こさなければならないのは存分に理解している。

しかし――長期休暇に突入してもその現状を打破できなかった。

209 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 02:46:20.38 ID:bL2optN20
そんな時一件のメールが入った。
ツンからだった。


『会いたい』


僕は狂喜と畏怖が入り混じった複雑な感情を覚えた。
続けてもう一通送られてきた。


『明日、うちまで来れる?』


緊急のことなので覚悟はまだ決め切れていなかったが、断るわけにもいかない。

僕はただ一言「うん」とだけ文字を打っておいた。





 

211 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 02:49:31.94 ID:bL2optN20


翌日の午後五時過ぎ、僕は家族にクラスメイトたちと遊びに行くとだけ告げて自宅を発った。
ツンの邸宅に到着したのはそれからおよそ三十分後。
その頃には夕方も佳境を迎え、暗い色の混じった茜空が町を覆っていた。

――ツンは門の前に立っていた。

「ツン?」

恐る恐る声をかけると、ツンは一瞬はっとしたように背筋を伸ばした後、こちらを向いて、

「ブーン……」

と無感動な様子で僕を視界の中に迎え入れた。
前髪をシルバーカラーのヘアピンで留めているから、陶器のような額が露になっている。
初めて見た髪型だ。

212 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 02:52:01.56 ID:bL2optN20
「えーと、その――」

僕が言葉に窮していると、ツンがそれよ先に切り出してきた。

「ちょっと歩きましょうよ。あなたと行きたいところがあるの」

「どこに?」

「私の思い出の場所」

台詞とは裏腹に口調は冷たかった。
愛の炎が消えかかっているのではないかと心配になった。

ツンは僕を案内するために先を歩いた。
彼女と歩く時はよほどのことがない限り手を繋いで並んで歩いたものなのに。
なんだか僕は二人の関係が修復不可能なところまでいってしまったのではないかという気になった。
だとすれば間違いなく自分のせいだ。
鬱々とした気分になりかけたが、今日こそ晴らさなければならない。

住宅街を抜けて更に国道沿いの道を進み、ゆるやかな傾斜の坂を登り詰めると――

215 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 02:53:37.20 ID:bL2optN20
「ここよ」

ツンが三棟あるうちの建物のひとつを指差す。

「ツン、ここって――」

「中学校よ。私が昔通ってた」

そう言うとツンは少しの遠慮もなく校門をくぐり中へと歩んでいった。
僕もその背中を追った。
どこまで行くのかと少々気にかかったが、
ツンはそんな僕の心境をよそにずんずん進んでいって南側の校舎内にまで入り、
とうとう階段を登り切って屋上へと繋がる扉前まで来た。

そういえば――ここまでひとりの生徒とも出くわさなかった。
どうしてだろうか?

「こっちの校舎ね、老朽化が激しいからってだいぶ前に使われなくなったの。
 私が入学した時にはもう立ってるだけの無用の長物になってたわ」

ぽつりと漏らすと、ツンは上着のポケットから毬藻のキーホルダーのついた鍵を取り出した。
そして開錠。
アルミサッシの扉は軋むような音を立てて開かれた。

216 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 02:55:47.38 ID:bL2optN20
「なんでツンが鍵を持ってるんだお?」

屋上に出て四方を囲むフェンスによりかかり、僕はツンに尋ねた。
もう夜が近づいてきている。
携帯で時刻を確認すると六時半だった。

「用具室を清掃中に拾ったのよ、偶然。
 最初はなんの鍵だか分からなかったけど、いろんなところに差しこむうちに屋上の鍵だって判ったの。
 そこからはここが私のとっておきの場所になったわ。
 誰も入ってこれない、誰にも気づかれることもない、秘密の場所にね」

そしてツンは、いつものように「ねぇ」と誘うように囁いてから、


「エッチしようよ」


単刀直入に告げてきた。やけに乾いた声だった。

219 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 02:59:18.07 ID:bL2optN20
動悸が激しくなり、またしてもツンの首が消失しそうになったが、かぶりを振って幻惑を吹き飛ばした。

もう迷ってはいられない。
昨夜から今日に至るまでの間に決断はできている。
この際きっぱりと言っておこう。

「ツン、やっぱり僕にはできないお」

ツンは目を丸くした。
失望されても仕方のない返答だとは十分自覚している。

「私のこと、嫌いなの?」

「そんなことはないお! 愛しているに決まっているじゃないかお。
 だからこそ君のためにいろんな努力をしたんだお。君にふさわしい恋人になれるように。
 ……でもやっぱり、そこまでのことは僕には無理だお」

昏い表情をしてツンは僕に眼差しを絶やすことなく送り続けていた。
吐く息はうっすらと白んでいる。


「君と僕は、性行為をしてはいけないんだお。それがモラルだお。
 ツンにそんな道徳心のない人間になってほしくないんだお」

220 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 03:04:24.34 ID:OoBwQkWb0
過去の出来事が、眩いばかりの記憶が走馬灯のように蘇ってきた。

一年生の校内ガイドをした時、初めて出会ったこと――後日、委員会で再び顔を合わせたこと――
ミステリー小説を読むことがお互いの共通の趣味だと分かって意気投合したこと――
歳の差を感じさせない友人関係を築いたこと――気心の知れた仲へと更に友情を深めたこと――
中学時代の経験から男性不信の気があると告白されたこと――それを克服したいということ――
何度も彼女の相談に乗ったこと――六月に、恋人になってほしいと打ち明けられたこと――
最初はごっこ遊びのつもりで過ごしたこと――しばらく付きあううちに本当の愛に発展したこと――
親密にデートを重ねたこと――僕に男の子のようなニックネームをつけたこと――
そして男性らしさを求める彼女のために自分の一人称を僕に改めたこと――


「君となら性別の壁を越えられると信じているお。だけど、セックスだけは……」


僕はツンを抱きしめた。
寒さに身体が冷えてしまわないよう、細い腕を精一杯伸ばして抱擁した。

ツンも僕の首筋に腕を伸ばした。

僕の伝えたいことが、ツンを好きだからこそだということが解ってくれたのだろうか。
だとしたら、この上ない幸せだった。
安らかな心地で瞼を下ろす。

222 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 03:05:19.97 ID:OoBwQkWb0
そこで――意識が途絶えた。

















 

224 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 03:09:29.30 ID:cq/i54e60
○愛するということ、愛されるということ



「ねぇ」

僕の目の前でツンが可愛らしく小首を傾げた。

僕たちは今センター街までデートに来ている。
昨日で三学期も終わり、今日から春休みに突入するということで、早速初日から惚気させてもらっていた。

この休みのうちに更なる進展があるだろうか。
今はまだ手を繋ぐところまでだけど、ファーストキスくらいは済ませておきたいなと考えた。
そのぐらいのことなら彼女の清らかさを汚さないだろう。

けれども、その先のことは今は頭になかった。
とにかくツンが好きだという気持ちが自分でも制御できないほどに疾走していた。

226 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 03:12:35.22 ID:oxpTtEKY0
「もう、聞いてるの?」

ツンはふくれっ面になった。

「ああ、ごめん、ごめんお。ツンがあまりにも可愛いから見とれてたんだお」

「やだもう」

ツンは頬を赤らめた――どうやら咄嗟のお世辞による切り返しはうまくいったようである。


「……それで、どうしたんだお、ツン」

「あのね、今日からあなたのこと、ブーンって呼んでもいいかしら」

「どうしてだお?」

「あなたってメジャーリーグのシアトルマリナーズにいたブレット・ブーンに似てるじゃない。
 そこから取って、ブーン。変かな?」

「ああ、時々言われるお。メジャーを知ってる人にだけだけど」

ただ今のところ、同級生の中では自分とドクオしかMLBに興味を示していなかった。

228 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 03:14:26.66 ID:oxpTtEKY0
だけどツンもまた知識があるようだ。
なんだ、もっと早く言ってくれればよかったのに。
僕はとても喜ばしい気持ちになった。
何よりブレット・ブーンといえば二〇〇一年のマリナーズ圧勝を支えた素晴らしいプレーヤーである。
その名前を拝させてもらって僕が歓喜しない道理はない。

「……うん、そうか、ブーンか、なかなか気に入ったお」

「本当? じゃあ今日からよろしくね、ブーン」

「おっおっ」

僕は微笑みを顔中に浮かべた。

「ツンはどうかお? そう呼んでみて違和感はないかお?」

僕の質問を聞いて、ツンは嬉しそうにはにかんだ。
そして僕の本名を改めて口にした。

229 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 03:15:27.88 ID:oxpTtEKY0
「うん、やる夫よりずっと呼びやすいわ」

















 

231 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 03:18:07.59 ID:oxpTtEKY0
――二〇〇八年 一月五日付の新聞記事より

昨日未明、VIP高等学校の生徒である翔子さん(十七)の行方が分からなくなっていることが、
家族から提出された捜索願によって分かった。
警察の発表によれば、翔子さんは現在、
年末に家族に「友人と遊びに行く」と言い残して以来、自宅に帰っていないという状況である
ただ「年末年始は友達の家で過ごす」と継続的にメールは送られてきていたと家族は話しているとのこと
(中略)
警察当局は事件と事故の双方の可能性を並行させて行方不明者の捜索に当たるとのことである
なお今回の一件は、一昨年七月に行方不明になった発生当時ニューソク中等学校の三年生であった、
内藤ホライゾンさん(当時十五)のケースと関連しているのではないかという疑いがあり――










<終>

232 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 03:19:10.87 ID:oxpTtEKY0
補填


・折原一
時間軸を用いた叙述トリックを得意とするミステリー作家
代表作「倒錯のロンド」など

・ヤングガン
1988年制作の西部劇映画
主演エミリオ・エステベス
「24」のジャック・バウアー役で知られるキーファー・サザーランドも出演していた
作中の有名な台詞に「過去は安い本と同じ。読んだら捨ててしまえばいい」というものがある

・オムライス
薄焼き卵でチキンライスなどの味付けご飯を包んだ料理
勘違いされることも多いが、日本生まれの料理である
また、某ブーン系小説まとめサイトの名称でもある
別に媚びているわけではない

・アナスイ
アメリカ人デザイナーアナ・スイが興業したブランド
大きな特徴として薔薇をモチーフにした化粧品やアクセサリーが多いことが挙げられる
薔薇と聞くと、「綺麗な薔薇には棘がある」という言葉をイメージする人も少なくないのではないか

233 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 03:19:51.26 ID:oxpTtEKY0
・期末テスト
学生たちにとってもっとも嫌なもの
三学期には「学年末テスト」と名前を変えることが通例である
一般的に学期末である7月、12月に行われる
この後には長期休暇が待っている。これは学生たちにとってもっとも嬉しいものである

・葉桜の季節に君を想うということ
歌野晶午の代表作。2003年3月発刊
「このミステリがすごい!の2004年度版(通称このミス)」で一位を獲得
このミステ2004年度版は2002年10月~2003年10月中出版された作品をを対象としている

・木瓜
木瓜には春に開花するものと、11月頃から開花し始めるものの二通りが存在する
後者は「寒木瓜」と呼ばれる

・大相撲
本場所開催月は1月、3月、5月、7月、9月、11月
1月、5月、9月は両国国技館で行われ、
3月、7月、11月はそれぞれ大阪、名古屋、福岡で行われる

・豊真将
錣山部屋所属の大相撲力士
ルックスのよさと誠実な人柄から、同郷である往年の名大関魁傑同様、非常に女性人気の高い力士である
2007年は名古屋場所、秋場所と順調に勝ち越しを達成し三役昇進への期待が高まったが、
続く十一月の九州場所では3勝12敗と大きく負け越してしまった
なお2007年の九州場所初日は11月11日である

234 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 03:20:34.34 ID:oxpTtEKY0
・日本シリーズ
10月後半から11月にかけて行われる
2006,2007のシリーズは二年続けて中日-日本ハムのカードで開催された
2006年度日本一の座には北海道日本ハムファイターズが、
2007年度日本一の座には中日ドラゴンズがそれぞれ輝いた

・ジミー・イート・ワールド
アメリカの四人組エモ・ロックバンド
最新作「チェイス・ディス・ライト」の日本盤は2007年11月7日に発売された

・A7X
ロックバンド「アヴェンジド・セヴンフォールド」の略称
「A7X」とは「復讐(avenge)の7倍(sevenfold)返し」という意味、つまりA×7
2007年のサマーソニックで来日

・サマーソニック
毎年8月に行われる大規模なロック・フェス

・徳永英明
日本の有名シンガーソングライター
代表曲「壊れかけのRadio」など
病気のために一時期活動を休止していたが、
近年「VOCALIST」なるカバーアルバムを数作発表し、好セールスを記録。再評価のきっかけとなる
2006年の紅白歌合戦で紅白初出場を果たし、翌年も続いて出演した

・千の風になって
テノール歌手・秋川雅史がカバーし、一躍有名になった曲
歌い手である秋川雅史は徳永英明と同様、2006年に紅白に初出場。そして2007年も引き続き出場
2006年時点ではあまり知名度の高い曲ではなかったが、紅白で歌われたのをきっかけに大ヒット
2007年度オリコン年間シングルチャートの1位を獲得

235 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 03:22:19.87 ID:oxpTtEKY0
・完全下校時間
学校によってはまちまちだが、おおよそ午後六時から七時までであることが多い

・日没
太陽が地平線の下へ落ちること
日没の際、地平線付近の空が赤く染まり、所謂夕焼けと呼ばれる現象が起こる
その時刻は季節によって大きく変化するが、
午後六時~七時の間に日没を迎えるのは夏頃だと推測される

・薫風
1.南風。温和な風。かんばしい風。南薫。
2.青葉の香りを吹きおくる初夏の風。青嵐。薫る風
(広辞苑より)

・夢
フロイトによれば夢とは「無意識の中で抑圧されたもの」の表れであり、
特に「性的願望の充足」を示すものが多いとされる
夢の中における血とは「セックスによる出血(破瓜や月経など含む)」を意味するとされ、
その際に用いられた凶器が男性器すなわちペニスの象徴であるといわれるが、
翔子の見た夢には凶器が出現していない
つまり男性器の存在しないセックス、レズセックスを暗示している
翔子は夢に対しても「吐き気」という、ツンとの性交に対してと同じ拒絶反応を示している

237 名前: ◆wZk4NVoY.w :2008/06/15(日) 03:24:08.79 ID:oxpTtEKY0
終わりでーす
遅くまでありがとうございました
意味不明な方は補填に目を通した後にもう一度読んでみてください



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